新美南吉の詩「綿の話」



 今は綿花の栽培も、採った綿で布を手織るのも、家内工業では行わなくなったが、岐阜の羽島には、伝統工芸の美濃縞を機織(はたおり)しているグループがある。羽島の旧街道の古民家、古畳の上を歩けば、床がしなるような古家に数台の織機がすえられ、そこでご婦人方が機織しておられた。日中技能者交流センター岐阜研修所で活動していたとき、ぼくは何度かそこを訪れた。綿を栽培し、それを糸にして美濃縞を織る。織った布を着物にしたり、洋服にしたり、工程はすべて手作業だった。作品は年に一度、羽島市文化会館で展示発表しておられた。それはなんとも形容しがたい、美しく妙なる織物であった。この文化が滅び去らないように懸命に努力しておられる中心のご婦人はもうかなりの高齢者だった。羽島へ行くことがなくなったが、毎年発表会の案内状を送ってきてくださる。
 新美南吉の詩に、「綿の話」という作品がある。昭和14年11月の作品だが、73年前すでに手機の文化は生き絶え絶えの状態だったことがわかる。

          綿の話

   火をくべてくれるばあさんから、
   綿の話を聞いた。
   私はあったかい五右衛門風呂にひたりながら、
   かまの外へ火が、ちろりちろりと
   出るのを見ながらきいた。


   こんげに「スフ」ばかりになっちゃ、
   こまるということから話ははじまった。
   わしらがむすめだったじぶんにゃ、
   どこの家でも綿をつくったといった。


   五月じぶんに種をまいて、夏じゅう育(しと)ねて、
   九月ごろ笑(え)ませるだといった。
   木は二尺ぐらいあるだ、
   胡麻ぐらいあるだといった。


   実はつばきの実に似ておって、
   一本に十もついている。
   それがぽっぽとはぜて、あっちにもこっちにも、
   まっ白に笑んでいるだといった。
   その実をとって、むしろにひろげて乾(ほ)いて、
   糸につむいで織機(はたご)で織るのが、
   わしら若いじぶんの冬中のしごとだったといった。


   いつか そんなことを
   しなくなってしまったといった。
   織機もこわして、
   縁がわをつくるのに使ってしまった家が多いといった。


   こないだ、どこかの弘法さんで、
   糸車を買ってきさした人があった。
   まだあんなものが売っておるだわいと、
   思ったといった。


   家で織ったもめんはじょうぶだ。
   まだ昔のもめんがふとんのうらに残っておるだが、
   あんなものは、ももひきのつぎにあてよか、
   なんていっとったといった。


   羽のよわったこおろぎが土間のすみで、
   たえだえに鳴いている夜に
   ばあさんから綿の話をきくのは、
   聞くさえあたたかに なつかしい。

 
  ぼくは羽島の一軒の古道具屋のおやじさんと親しくなり、昔の田舎の古箪笥と、糸車を買った。おやじさんは奥さんと二人で、箪笥を車で安曇野まで持ってきてくれた。
 安曇野では、昔は養蚕が盛んだった。絹織も行なわれていた。同じ村に住む、ぼくよりも高齢の平林さんに、機織の話を聞いたことがある。平林さんは、織った布を皇室にも献上したことがあると話してくれたから、よほどの名人だったのだろう。その織機も使うことがなくなり、いつか壊されたという。今は安曇野から養蚕も機織もとうの昔に消えてしまっている。名残は野のあちこちに生えている桑の木だけだ。
 「綿の話」の中に出てくる「スフ」は、昭和10年代に木綿の代用品として広く使われた人造綿花である。工場生産の人工繊維が主流になって、手づくりの天然繊維と機織はわずかに残っているだけになった。