映画『剱岳 点の記』


 栗の花の香りは強く、野性そのものだ。


父の日に、息子夫婦から映画『剱岳 点の記』のチケット2枚が送られてきた。
母に日には、妻にカーネーションの花鉢だった。
父の日は何をしよう、と考えていたらタイミングよくこの映画が封切られた。
オヤジにはこれがいい、と思った。分かる、分かる。


と、そこへ電話が鳴った。
キタさんの声、
「観てきたぞ、『剱岳 点の記』や。ロケがなかなかいいぞ。
長次郎の雪渓、下から登っていきよるところ、長次郎の雪渓や、あの谷の光景、記憶と同じや。」
もう50年前の記憶ではあるが、キタさんにとっても鮮明に焼きついている剣。
この映画は、新田次郎の小説が原作で、明治のころ、陸地測量の日本地図を完成するために、未踏の剣岳に登頂して三角点を立て測量するという軍の計画にもとづき、測量隊が困難を乗り越えて目的を完遂した逸話だ。
初登攀をねらう日本山岳会の登山隊と競う筋立てとなっている。
測量隊は軍人ではなく、陸地測量手と呼ばれる技術者で、彼らは富山・大山村の山岳ガイドを雇って山に入った。
ガイドといっても明治のころだから、近代的なガイドとは異なる。
この測量隊でガイドの長をつとめた宇治長次郎は、子どものころから山仕事に従事し、山に精通した山の案内人だった。
長次郎の名前は、剣岳頂上に至る長大な谷に名付けられて残っている。


冬の剣岳へもキタさんらとパーティを組んで西面から登った。
「おう、観てきたかい、そうか、ぼくも観にいく予定や。」
学生時代、剣岳では2回夏の合宿を行なった。
あのとき、ぼくと杉本は組んで、長次郎谷を登って、八峰六峰Cフェースの岩壁にアタックした。
キタさんらは別ルートを登った。
ライミング途中からトップに立った杉本は、ハーケンも打てないスラブを、手足のフリクション(摩擦力)だけでよじのぼった。
そのルートを選択した杉本には、恐れ入ってしまったが、ザイルを組んでいるぼくもまた、その後に続いてフリクションの力だけでその難所を越えた。
下を見ると、切れ落ちる岩壁の下に、白い急峻な長次郎の雪渓が剣沢めがけて落ちこんでいた。
スリップしたら、二人とも確実に死んでいた。
杉本は、卒業後数年して、脳腫瘍のためにこの世を去った。
キタさんとは、白馬、穂高、黒部上の廊下、黒部源流の谷、鹿島槍東尾根、たくさんの山行をともにした。
彼は海外の山から帰ってきてしばらくしてから不慮の交通事故に会い、右半身に障害を残した。
彼の山はそれで終わった。30代だった。
しかし、山には登れないが、山岳会会長として後輩のお世話をよくしている。


映画は、松本市内にある映画館で観た。
場末の匂いのする少し古臭い映画館、観客は50人ぐらいだった。やはりなつかしの青春期を回顧する人たちが多いように見受けられた。
映画館のど真ん中の席に夫婦で座った。
初登攀を争う日本山岳会の隊の張り合う描き方が、少し感情的な演出だったが、
測量隊が登り、日本山岳会が第二登になる最後の場面で、互いに相手の敢闘を讃えて、手旗信号でエールを送りあい、感情の対立が解ける場面が出てくる。
あなたがたもすべて仲間です、
この成功は、かかわったすべての人の仲間によって成し遂げられました、
というメッセージ。
それぞれ異なる目的をもち、登頂という目標に共通点があって対立的になったけれども「仲間」なのです。
敵も味方もない。
それに対して、困難を克服して測量をやり遂げた隊員たちの功績を認めなかった陸軍の幹部は、「わが名誉とわが勲功」に反すると考えると、そのものを仲間と認めない。
対立すれば敵とする。


測量隊が長次郎の雪渓を登っていく場面、八峰の岩壁の映像が画面いっぱいに現れる。
わが青春の追憶にしばしふける。


ドラマが終わって、キャストの名前が画面に現れる。
「仲間」の精神がそこに表現されていた。
主役も脇役も、監督も俳優も、原作者も、脚本家も、音楽担当も、地元の協力者もエキストラも、すべて対等平等に、
すべて同じ大きさの文字で、横並びにえんえんと続いた。
この映画を作った「仲間たち」、
誰一人として特別な存在にしていなかった。