息子が兵庫から夜行バスで上高地にやってきて、松本に住んでいるオジャ君と二人で奥穂高岳に登ってきた。
梅雨の晴れ間の快晴に恵まれ、涸沢カールのヒュッテ前のキャンプサイトにテントを張り、ザイテングラードと呼ばれる岩稜の登山道を登らず、残雪の多い大雪渓を登り、奥穂のコルに分岐している雪渓に入って稜線近くまで登ったと言う。
「そこはかなり急峻だ。スリップしたら危ない。ピッケルで、滑落を止める練習が必要や。」
ぼくがそう言うと、息子はそれを認識していたようだ。
「危険だから、最後はザイテングラードに逃げたよ。」
二人は無事、奥穂高に登頂してきた。いつのまにか息子は、ピッケル、アイゼン、山靴、ヘルメット、装備を一通りそろえていた。
涸沢は、登山者はまだ少なく、テント場のテントの数もわずかだったという。
戦前の、日本アルピニズム創成の時代から、穂高山群は山人の憧れだった。
1928年、大島亮吉は、涸沢の岩小屋をねぐらにして、山に登った。彼は「山」という随想を書き、その本は山人の古典となっている。大島亮吉は、愛する穂高で若くして人生を終えた。
「山」の中の一文。
「涸沢の岩小屋が大好きだった。こんなに気持ちのいい場所はほかにはない。岩小屋のぐるりは日本で一番すごい岩山で、高さも2500メートル以上はある。穴の中に敷いてあるハイマツの枯葉の上に横になって、岩のひさしの間から、前穂高の頂や屏風岩のグラートとカールの雪面とを眺めることができる。ここには来るものはいない。実に静かだ。ここで、4,5日、のんびりと過ごす。天気のいい日は、ザイルを肩に、岸壁にかじりつきに行く。岩場から帰ってくると、岩小屋の屋根になっている大岩の上でトカゲをやる。トカゲというのは、仲間が言い出してから自分たちで通用する専用の言葉だ。いい天気の日、岩の上でトカゲみたいにべったりとお腹を、日に温められた岩にくっつけて寝る。」
三田博雄は、「山」の最後に解説に書いていた。
「当時の登山者は、険しい岩壁でビバークすることになった時、山の奥から沈痛にひびいてくる運命の、問いかけの声に応えて、次の二つの道のどちらを自分の運命として選ぶかを迫られた。つかの間の命に終わろうとも、輝かしくも充足した生を選ぶか、それとも街の片隅での目立たない生き方をとるか。大島は、前者の道を選んだ。」