絶望の中での生きる力 <2>


 美術学校から戦場に送られた戦没学徒の絵をあつめている美術館、『無言館



大岡昇平の作品に、『俘虜記』という、体験に基づく記録小説があります。
大岡は第二次世界大戦のとき、召集されてフィリピン・ルソン島の南に位置するミンドロ島に送られました。
アジア各地に展開していた日本軍は次々と撃破され、敗色濃厚な昭和19年(1944)12月に、島はアメリカ軍の艦船60隻に包囲されます。
部隊の最後の戦闘は玉砕しかありませんでした。
このような状態におかれた兵士の心の中と行動を、大岡昇平は実に驚くばかりの詳細さで記述しています。
次のような、文章があります。


「私はすでに日本の勝利を信じていなかった。
私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、
彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。
一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方に私はこっけいを感じたが、
今無意味な死にかりだされていく自己の愚劣をわらわないためにも、そう考える必要があったのである。」


大岡の乗った輸送船が日本を出たとき、はっきりと死が自分の前に腰を下ろしていることを知りました。
未来には死があるばかり、心は虚無におちいります。


「死の観念は絶えず戻って、生活のあらゆる瞬間に私を襲った。
私はついにいかにも死とは何事でもない、ただ確実な死をひかえて今私が生きている、それが問題なのだと了解した。」


自分の行く手には、死があるのみ、そういう事態のなかで、大岡の心に思いがけず湧いてきたものがありました。


「退路が遮断され、周囲で僚友が次々に死んでいくのを見るにつれ、不思議な変化が私の中で起こった。
私は突然私の生還の可能性を信じた。
九分九厘確実な死は突然おしのけられ、一脈の空想的な可能性を描いて、それを追求する気になった。
少なくともそのために万全をつくさないのは無意味と思われた。
肉体が我々をして行なわしめるものはすこぶる現実的であるが、
その考えさすものは常に荒唐無稽である。」


軍人勅諭によって「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられ、それに縛られていた日本の兵士たちは、捕虜になるよりは死を選び、
生還することを考えないようにさせられていた。
ところが大岡の心に「自分は生き残るのだ」という観念が生まれてきたというのです。
大岡の戦友に滋野という男がいました。
彼は自ら前線に出て一兵卒として戦うことを夢見て、戦場にやってきた男でした。
ところが、前線の状況は、彼の夢を打ち砕きます。
軍はあまりにも愚劣であり、こんな戦場で死んでしまってはつまらない、
滋野は大岡にそう話したのです。
それを聞いた大岡は、天の啓示を聞いたように思います。
そこには大岡の考えに通じるものがありました。
だから心に電流が流れるように通じるものがあったのでしょう。
およそ戦場でこのような会話がなされていたこと、
そして巨大な観念の暴風にさからうような行動がなされていたこと、
意外であるけれど、それが戦場の現実でもありました。


「この言葉は私にとって一種の天啓であった。
この死を無理に自ら選んだ死とするきょごう(おごりたかぶること)が、
一種の自己欺瞞に過ぎないことに私は突然思い当たった。
こんな辺鄙な山中でなすところなく愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのは、『つまらない』、ただそれだけなのである。」


そこから二人は、その島から脱出する計画を立てるのです。
やがてアメリカ軍がどんどん攻めてくる。
そこで戦場から抜け出て、海岸に出て、現地住民の帆船をぶんどって、ボルネオに逃れる、
もし船がなかったら、山にこもって、草の根を食べても、休戦になるのを待つ。
昔読んだ『ロビンソンクルーソー』のように。


「この計画はいかにも空想的であるが、我々はその実現の可能性を少しも疑わなかった。
我々はくりかえし計画を検討し、日に三人誰かが死んでいくなかで、墓堀人足のように快活であった。」


そしてまず身近な敵、マラリアにかかったときに身を守るため、体力をたくわえることに全力をあげます。
病人の兵士の食べ残した粥を食べ、土に落ちている飯粒も拾って食べました。
しかし、マラリアは兵士たちを襲い、大岡もマラリアにかかります。
すでに上陸していたアメリカ軍は包囲網を縮めていました。
部隊は山中を移動し、移動のたびにマラリアにかかっている兵士はその場に残されていきました。
大岡も残され、高熱におかされます。
米軍との戦闘で戦死する兵士も多くなりました。
大岡たちの脱走計画は結局実行に移すことができませんでした。
彼は死を覚悟します。
病の中で、大岡は米軍と出会ったときに自分はどうするか、その場面を想像し、考えます。


「確かなのは私が米兵が私の前に現れた場合を考え、射つまいと思ったことである。
私が今ここで一人の米兵を射つか射たないかは、僚友の運命にも私自身の運命にも何の改変も加えはしない。
ただ私に射たれた米兵の運命を変えるだけである。
私は生涯の最後のときまで人間の血で汚したくないと思った。」


部隊はばらばらになり、大岡はひとりになります。
そしてある谷で、若い米軍兵士と遭遇したのです。
近づいてくる兵士、
どうする、緊迫するシーンでした。
もっと近づいたらどうなっていたか分かりませんが、相手を倒せる至近の距離でしたが、大岡は射ちませんでした。
米軍兵士は別の銃声を聞いて、そっちへ移動していきました。


結局大岡は、この戦闘で捕虜第一号になり、日本に生還することになります。
捕虜生活の詳細は、この『俘虜記』につづられていきます。