辺見庸と「抗い」

michimasa19372009-02-08




行動する憤激の作家、辺見庸は、「抗うこと」という文章で、
41年前、抗議の焼身自殺をとげた由比忠之進さんのことを書いていた。


由比さんは戦時中、木材でヒコウキをつくることを考えたような、
どちらかというと戦争に協力的な人だった。
それが終戦直前、旧「満州」に移住していた一般日本人を放置して逃げた関東軍を目の当たりにする。
日本の関東軍の行為はひどかった。
由比さんの考えは変わる。
被害を与えた中国につぐないをしよう。
由比さんは妻子を日本に帰し、自分は中国に残って都市の復旧に粉骨砕身働いた。
戦後、日本に帰った由比さんは、ユダヤザメンホフ博士が築いた国際語エスペラント語を学び、その普及に人生をかけた。
ザメンホフは全民族の平等と平和を唱えていた。
由比さんは、「世界平和エスペラント運動」の日本支部を結成し、支部長になった。


1967年11月、由比さんは首相官邸の裏側歩道で、立ったまま胸にガソリンをかけ、
焼身自殺をとげた。
抗議文が残されていた。
それは次のような主旨だった。


   佐藤首相に死をもって抗議する。
   アメリカはベトナム戦争で、
   ベトナム民衆に悲惨極まりない状態を生み出している。
   そのアメリカを支持している首相・政府に深い憤りをおぼえる。
   私は死をもって抗議する。


抗議の死をとげた由比さんだったが、
その死を日本人はどれだけ深刻に受け止めたか、受け継いだか、
それが辺見庸の憤激だった。


辺見庸は、大きな歴史の節目には、いつも由比さんのことを考えるという。


   「憤激を行動として示すことができないとき、由比さんが頭に浮かぶ。
   思想とその結果としての自己処理(自裁)をイメージするとき、
   由比さんの方法が一つの典型として脳裏に浮かぶ。」


辺見庸は、思想と自裁の間には自分の場合、数万キロの距離と複雑きわまる迷路があって、
結局は、ためらい、いくじがなくなり、そのうち初めの論理と意欲はうそのように消えうせ、
むなしい疲労の海に漂っていた、と。


   「結果、いつも自裁にはいたらず、<決定不能>ないし、<未定>のみが当座の結論となる。
   だが、宙づり状態のその結果から出発点の思いを振り返るとき、
   論理の岩の間から、ちろちろと恥の感覚がわいてくるのを抑えることができない。」


由比さんは米国の戦争政策をどこまでも支援する佐藤政権に死をもって抗議した。
それなのに、自分はどうしている。
自分はいくじなしだ。
恥ずかしい。



辺見はうちのめされる。
辺見庸は自己を打つ。
その後も、日本政府は相変わらずアメリカ追随をやり続け、
あげくのはて小泉首相アメリカのイラク戦争に加担した。
その責任は国民から問われることもなく、今に至っている。
由比忠之進の、死をもっておこなった抗議はどうなったのか。
自分は何をしたか。


    「無責任の戦後民主主義がいま、じつに恥ずかしい死のときを迎えた。
    戦後民主主義の恥ずべき死と、由比さんの自裁は対極にある。
    戦後民主主義は由比さんを裏切った。」


戦争だけにとどまらない。
今や矛盾の洪水は、日本社会に、世界に溢れている。
空洞化した民主主義、
空洞化する政治。
職を失い、住むところも食べるものもない人の群れ。


ぼろぼろと崩れていく。
精神の崩壊が怖い。