十五年戦争に、もっとも多くの、屈強な兵士を送り出した岩手県。
貧しい山村では乳児死亡率が高かった。その中を生き抜いた子どもはそれだけ頑健だったから、強靭で忠勇な農民兵士となった。激戦地に送られた彼らはほとんど戦死した。
国家主義思想が学校に吹きすさぶ中、岩手の心ある教師たちは、北方台教育の旗を掲げ、生活綴り方教育を進め、貧しい暮らしにひしがれる子どもたちに現実を直視させ、そこから打開の道を考えて生きる気力を育てようとした。それによって、多くの教師たちが治安維持法違反などの罪を着せられ、弾圧されていった。岩手師範学校からも学生が検挙されていった。
戦後、日本は民主国家になった。北方台教育運動が復活した。
文部省は「新教育指針」を発表した。
「軍国主義や極端な国家主義においては、教育もまた戦争の手段とされたり、国家のためという口実の下に干渉されたりした。平和的文化国家になって本道にかえったのであるから教育者はだれにも干渉されることなく、自由に本分を尽くすことができる‥‥」
だが政府・文部省はふたたび教育の国家支配を押し進めはじめた。その文教政策に対して岩手の教師たちは果敢に反対した。
斎藤茂男は「教育ってなんだ」(太郎次郎社)に、戦後の岩手の教育現場を書いている。
昭和三十年代に入って、政府は、学校の目的を、経済成長に必要な人材供給の手段に位置付けた。その手段として全国一斉学力テストが計画され実施される。岩手県教組の教師たちは、それに反対し闘った。岩手全県では、テスト拒否率85パーセントだった。
そしてその後、日本は全土を覆いつくす巨大な変化をとげて、今の日本に至った。
岩手の歴史を想う。
岩手を初めて旅したのは、1988年だった。賢治、啄木、光太郎を訪ねる旅だった。