ナショナリズムとファシズム

 書店に行ってみる。単行本にも週刊誌にも、中国、韓国という目立つタイトルがいくつか目に留まる、他国への批判感情が、きわだった色使いに現れている。公共の図書館のなかにもそれらが何冊も入り込んでいる。公共の図書館で、どうしてこういう図書を選定して入れているのだろうかと強い疑問を感じる。内省することなしに他国を非難する書だなと眺めながら思う。今の日本が現れている。一方の中国や韓国では、反日の書が店頭にあふれ、過激な内容になっているのだろうか。もしそうだとしたら、嫌な世の中になってきたものだ。

 内山節がこんなことを書いていた。(「清浄なる精神」信濃毎日新聞社
 <近代社会の内部には、つねにナショナリズムが台頭してくる基盤がある。国という枠組みで世界をとらえ、自分の存在基盤を認識する以上、自分たちの社会の危機は国の危機としてつかみとられる。そこから自由の発展を妨害している国や民族が「発見」され、「共通の敵」がみいだされていってしまう。>
 中国や韓国への批判を日本全体に共有させようとする、そして「共通の敵」と見立てようとする思考、その反対に、中韓では日本は「共通の敵」だという思考が盛んになる。両者が錯誤を錯誤と感じなくなるときに感情的対立が抜き差しならなくなって暴発が起こる危険が迫ってくる。欧米の抱く危惧はそこにある。
 <戦後の日本は、ナショナリズムが社会を覆いつくす事態をかろうじて食い止めてきた。たえずその芽が発生しながらも何とか食い止められた要因の一つは、戦後社会に定着した戦争への反省であった。二度とあんなことをしてはならないという気持ちが、ナショナリズムの台頭を警戒する風土をつくった。だがそれ以上に大きな要因は、戦後の日本が経済発展をとげつづけたことにある。私たちは経済発展の受益者でもあった。だから「いまのまま」が続くことがよかったのである。ナショナリズムの高揚は経済成長を阻害する要因のように感じられてきた。>
 日本の経済発展が停滞したころから、危機感がナショナリズムを刺激した。ぼくが大阪市内の大型書店をのぞいて、異状を感じたのは2000年の初めだった。
 <近代人の精神を考察するとき、避けられない課題として、ファシズムの問題がある。
 ‥‥ドイツの映画監督のファスビンダーは、しばしば作品で、自由で民主的な社会の内部にひそんでいるファシズムの問題を取り上げた。民主主義はファシズムの対極のもののようにいわれるがそうではない。民主主義の社会のなかには、つねにファシズム全体主義の芽がひそんでいると。実際ファシズムは、民主的な社会がある程度形成された後に発生している。ドイツでは第一次大戦後にいわゆるワイマール体制が生まれ、社会の民主化がすすめられたすぐ後に、ナチズムが勝利した。日本も昭和に入ってファシズム的体制がつくられていく前に、大正デモクラシーがあった。フランスでも1930年代にはファシズム勢力が権力を確立する寸前までいったし、今日のアメリカも民主的であり、同時に全体主義的雰囲気の強い社会だと言える。
 民主主義の社会では多数派を握ることが重要になる。多数派こそが権力であり、多数派を形成した者たちが正しい判断を持っている人として振る舞う。そのとき、人間たちに発生するのは、自分が多数派に加わることによって、自分の身を守り、居心地のよさを獲得するという行動である。多数派は、主導権をもっているばかりでなく、「正義」を体現するものとして振る舞うことができるから、そこに加わることが自己の安定した立場を確立させる。
 こうして民主的な社会では、主導権を握るものと、その一員になろうとするものと、少数派の方にはいかないようにする人たちによって、多数派が形成される。この多数派が少数派の存在を許さないとき生まれてくるのがファシズムである。
 民主的な社会の奥には、ファシズムに容易に転化する原理がひそんでいる。
 伝統的な共同体の社会でも、多数派は形成されていた。伝統的な共同体では、全員が多数派であり、少数派が生まれないように工夫した。だから寄り合いなどでの意思決定の仕組みは、満場一致しかなく、長い時間をかけても全員が一致できるまで議決をとろうとしなかった。人々が共同体という「小さな世界」を基盤にしていたからである。そして人々がそこから離れ、社会全体という「大きな世界」に身を置くようになったとき、人間は個人となり、社会の奥にはファシズムの芽がひそむようになった。>
 戦後つくりあげてきた、平和を確立しようとする思想、民主社会への実践は、脆弱だったのか。 
 原発事故は「国難」だと当時の菅首相は言ったが、いまそれは国難ではなくなったのか。この事故は、単なる日本の、福島の、東電の事故だと限定していいのか。これは人類史上の転回点を意味するものではなかったか。にもかかわらず再稼動をめざし、海外へ原発の輸出をすすめ、靖国に参拝し、憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使を容認し、中韓との対話もできない。ナショナリズムをあおる動きに気をつけろ、ということなんだが、さて国民は?
 思想の基盤が問われているように思う。

 哲学者、内山節は、群馬県の山村に住み、森づくりや農業をしている学者である。