一ヶ月ぶりに、安曇野に帰ってきた。
風は冷たいが、やはり春の気配がする。
今年は山の雪も少ない。
駅に迎えに来ていたランの喜びようったらない。
車の窓からウォンウォン吠えて、体をくねらせ、しっぽを振り回し、差し出す手をなめまわす。
家に帰って、今年届いた年賀状を取り出し、もう一度読んだ。
何人か、返事の来なかった人もいる。どうしたのだろう。
病を心配していた友から届いた元気回復の年賀状は、しみじみうれしい。
近況を知らせてくれる便り、思いが込められたいくつか。
小中学時代の友、中学を卒業してパン屋で働き、後にレストランのシェフになった、
鋭治君からの便り。
「遠い安曇野の地で、友ががんばっているのだと思うと、
こちらも勇気づけられます。
おぼえていますか? 二十歳のころ、
土佐堀川河畔のコーヒー店で、
君が語った『大阪文学学校』の話を‥‥。
ぼくは今、そこの小説クラスに通って、6年目になります。
『小野十三郎』を熱く語った君が、まぶたをよぎります。」
近畿の山々を歩き、自分の「百名山」を著した大学山岳部の一員、英司君から。
「お便りによりますと、自宅にいながら北アルプスが見えるとか、
なんてうらやましい。
わたしの場合、四条畷の飯盛山の一部が見えて喜んでいたのですが、
それも新築のマンションで見えなくなってしまいました。
工房を自分で造られているとか、たいしたもんですね。
わたしは、家の裏口を出たところのトタンを張り替えたぐらいです。
近所の酒屋のおじさんが、見かねて手伝ってくれました。
わたしの世話している碁会があります。
碁の技量はいうまでもなく、人間としての修行がいかに足りないか、
思い知らされました。
碁は、自分を反省させてくれるところがいい。
反省しても反省しても、いっこうに向上しないのですが‥‥。
山はぼちぼちやっています。
命の糧のような気がして。」
山岳部の先輩であり職場の同僚でもあった藤やんは、紅葉した高安山の写真を載せてきた。
藤やんは、重病をわずらって、やっと立ち直ったようでうれしい。
「わたしたち夫婦は、平凡でささやかですが、満ち足りた日々を過しています。
写真のような、高安山を見ながらの毎日です。
四季の変化を感じ、山菜採り、毎日の散歩を楽しんでいます。
頂上近くの白い塔は気象レーダーで、
若いころは1時間で登れました。
左のほうには、生駒山が見えます。
今年こそ、東北かアルプスへと。」
元同僚で、教育の荒廃を憂えながらともに活動した通雄君は、田舎の古民家を再生して夫婦で住んでいる。
「愛用していたパソコンが突如として故障した。
たたいたり、いじくりまわしたりしているうちに、とうとう起動すらしなくなった。
自作パソコンなので、メーカーのせいにもできず、あきらめて買い替えに、と気持ちが動き始めたとき、
ふと、ラジオ少年だった昔の記憶がよみがえった。
半年分の小遣いをはたいて、買ったパーツで、
組み立てた4球高周波1段増幅のラジオ、
完成したときの感激!
だけどラジオ放送を聞くことはできなかった。
小遣いが足りず、スピーカーが買えなかったから‥‥。
こだわりつづけて、半年、ついにパソコンの再生に成功した!
ついにとったぞ、ラジオ少年の仇!
夏は田舎にこもって汗ダラダラの肉体労働。冬は大阪でパソコン漬け。
おりしも世の中、金融危機の嵐。世界恐慌からファシズム、
そして戦争へ突っ走った、
あの悪夢の教訓を今こそ生かさねば‥‥。」
新任初めての教え子、高君も還暦を過ぎた。
彼は、同胞のために、社会活動一筋の人生を送ってきた。
「在日一世52名の体験談を収録した『在日一世の記憶』が10月に、
集英社新書から出版されました。
企画から5年、20余人のスタッフが全国規模で聞き取りを行なった労作で、
各種マスコミにも紹介されて好評です。
わたしは意義深い事業に事務局長として参加することができ、感慨ひとしおです。
毎日新聞大阪版の連載は今年で10年を迎えます。
08年からタイトルを、『地球村に架ける橋』と変更し、
国際交流活動を行なっている団体・個人のルポを執筆しています。」
同じ年の教え子、千鶴さん、病を克服して、好きな登山に信州へ来られる日も近い。
「子どものころは、一年がとても長く感じられたのに、
歳を重ねるごとに、一年があっという間に過ぎてしまう。
情報化時代も加わり、お互いお変わりありますよね。
そして私、還暦を過ぎて61歳、もうびっくりしちゃいます。
不器用な私が、ただひたすらに突っ走ってきた実感です。
周りの方々のおかげで、ようやく地に足をつけて歩けるようになりました。
今後、身体的代謝や心的活性度の低下、
いくら思っても体がついてこない、
これが宿命ならば、
より充実した一年を過したいです。
明るいことがつづくように期待しながら、がんばります。
ようやく山も復活。楽しみにしています。」
同期の教え子、ぼくと同じ教員として生き、定年退職後も講師で活動している貞子さん。
「再任用で続投しました。特別支援学級のチーフになってしまい、
目の回る忙しさでした。
でも、本当は、私のしたかったことなのかもしれないと思いました。
充実した一年だったと思います。
旅先で買った小さなシクラメンが、
一生懸命に咲いています。
私も、真綿色したシクラメンのように、すがしく生きたいと思います。」
ずっと後の教え子、今三十代のコウタロウ君からは、年賀状ならぬ年賀冊子が、いくつかの贈り物と一緒に、ぼくの留守中に送られてきていた。
「今年も私が勝手に、上得意様と思っております方々に、
感謝の意を込めまして、ささやかながら『お年賀プレゼント』を同封させていただいておりますので、
ご笑納いただけましたら幸いです。
昨年を振り返ると、転勤・引越しなどがあり、
バタバタしたので、毎年の年間目標にしている
映画50本鑑賞、TVドラマ50本鑑賞が達成されませんでした。
9月に引越ししたのに、部屋にはまだ片付いていない段ボール箱が14個あります。」
そうして、『ありふれた景色』というタイトルをつけた小冊子が同封されていた。
パソコンで、彼が打ち出した文章と写真、
そのなかに、昨年の我が家訪問記と安曇野紀行が掲載されている。
中学時代から彼はエッセイ風の個性豊かな文章を書いていた。
『ありふれた景色』は、『東京紀行』につづく、彼のユニークな作品集だった。
旧友・鋭治君に、半世紀も昔に勧めた「大阪文学学校」、
ぼくは、昨年コウタロウ君が我が家に来たときにも「大阪文学学校」を勧めたのだった。
「コウタロウ君、芥川賞をねらったらどうや?」