研成義塾と井口喜源治

michimasa19372008-12-26






「攪乱(かくらん)の会」とやら、いいかげんに名づけて、
50代以上の5人がI家に集まった。
薪ストーブが赤々燃えて暖かい。
世間ではクリスマス会とかやっているとき、こちらは「かく乱の会」。
今や50台以上の高齢者こそが、この社会に活を入れなければならない、
高齢者は、持っている「かく乱する力」を発揮せよ、
と主張していた姜尚中さんの言葉に「かく乱」は由来している。 
「かく乱」は「かき回す」ことだが、かき乱すことが目的ではなく、沈滞・低迷を打ち砕くのが目的。


Y子さんが、鶏一羽まるごと焼いてくれた。ごちそう、ごちそう。
大いに食べて大いにしゃべる、「かく乱の会」だからね。
F子さんが、いきなり訊いてきた。
「研成義塾というの知ってる? 井口喜源治という人は?」
「井口喜源治は、荻原碌山を教えた人だね。『次郎』という詩を作っているよ。その詩にフォーク歌手が曲をつけている。」
碌山美術館の碌山忌50周年記念コンサートで、三浦久さんの魅力溢れる弾き語りを聴いた。
そのなかに井口喜源治の長編文語詩「次郎」があった。
Fさんが話し始めた。 
「今日、ボランティアで公園の掃除に行ったのよ。そしたら、そこで会った人が、研成義塾と井口喜源治の話をしてくれたの。
話をしてくれた人はキリスト教の無教会派の人で、井口喜源治も無教会派だったというのね。実は私も無教会派なのよ。」
Fさんが聴いたというのはこういう話。
井口喜源治はたくさんの人を教え、300人ほどの教え子たちはアメリカへも渡っていった。
太平洋戦争が勃発してから、敵国の日本人ということで、日系は砂漠の強制収容所へ入れられ、戦後年月がたって、その不当性への訴えが起こった。
大統領は謝罪し、補償金を支払った。


内村鑑三からはじまった無教会主義は、牧師も教会もない純粋な信仰のみの宗派である。。
内村鑑三は、非戦論者でもあった。


安曇野穂高につくられていた研成義塾で、たくさんの人が井口喜源治の影響を受けたという物語に、
安曇野に来てまだ半年しかたっていないFさんはすっかり感動し、知的好奇心が燃え上がった。
臼井吉見の小説『安曇野』にも出てくるよ。それから井口喜源治記念館に行けば、資料があると思う。」
ぼくがそう言うと、25日に井口喜源治記念館でクリスマスの集いがあるらしい、行こうかしらと言う。
「そりゃ、行ってきたらいいよ。」
みんなも口々に勧める。
「じゃあ、行こうかな。穂高までバイクでいけるかな。」


信州の山里で、明治の初めにこのような教育の血潮がたぎっていた。
研成義塾、それは民が主導する村塾だった。
もともと「研成」という語は、明治5年の学制発布にともなって穂高に生まれた学校につけられた。
日本のほとんどの地区が地名を冠しているのに対して、一段高い教育を目指して研成学校と名づけられ、
その誇りを受け継ごうとして、井口喜源治たちの村塾は研成義塾になったのだった。


「かく乱の会」から家に帰って、ぼくは臼井吉見の「安曇野」を出して目を飛ばした。


井口喜源治は明治3年(1870)に生まれ、松本中学を卒業してから東京に出て、明治法律学校に学んだ。
その折、同郷の友人、同じキリスト教徒であった相馬愛蔵に連れられて喜源治は教会へ行き、内村鑑三の説教を聴く。
信州に帰ってからの井口喜源治は、東穂高組合高等小学校の教師になった。
喜源治はよく子どもたちに、
「偉い人でなく 良き人になれ」
と話していたという。
穂高の若者たちは明治24年に禁酒会をつくった。
やがてそれは夜学となり、学習は、英語、経済、珠算、歴史など、生活浄化と社会改革につながる勉強会になっていった。
松本中学出身の社会運動家で、反戦思想のキリスト者、木下尚江も講師になってやってきた。
木下は徳川慶喜をめぐる幕末の日本を夜学で語っている。
ところがキリスト教に反対する地元民の喜源治排斥の運動が起こった。
官学に対抗して私学をつくろう、喜源治ら禁酒会の同志たちは、研成義塾創立へと動き出す。
資金や校舎、土地の相談を受けた相馬愛蔵の父、安兵衛がこう語っている。


「資金よりも、塾舎よりも、大事なのは建学の精神てやつさ。官学に対抗なんて、から威張りしたところで話にならん。
教育は、これがはっきりしていなくちゃ、長つづきするもんでない。」


かくして研成義塾は、明治31年(1898)に生まれた。
趣意書の前文は次のように書いている。


「多数同志の熱愛によりて研成義塾成れり。そもそも吾塾はいかなる目的をもって生まれたるか。
いわく文明風村塾的の真教育を施さんがためなり。けだし官公立学校には官公立学校の特色あり、村塾には村塾の異彩あり。吾人方今の教育界における光景を察してかかる村塾的教育の貢献少なからざるべきを確信す。‥‥」


そして次のような項目を立てている。


「一、吾塾は家庭的ならんことを期す
 二、吾塾は感化を永遠に期す
 三、吾塾は天賦の特性を発達せしめんことを期す
 四、吾塾は宗派の如何に干渉せず
 五、吾塾は新旧思想の調和を期す
 六、吾塾は社会の連絡に注意す」


それぞれの項目に付けられた説明の要旨は、次のとおりである。
一は、家庭団欒風の塾にする。学生も多きを望まない。校舎も壮大なるをねがわない。外見よりも内容に重きを置く。教師の教化薫育はそのほうが行き届く。
二は、教師が頻繁に変わっていては効果がない。教師は十年一日のごとく、学生の生涯にわたって相談相手になり感化していくべきものである。
三は、人はそれぞれ違いがあり、同じような型にあてはめてはならない。求道心・道義心の根元は一致すべきだが、天賦の特質はつとめて保存し、長所は充分伸ばす。その人の一生の方向に最も有効になるようにする。
四は、宗教的観念はもっとも高尚なものである。その啓発は人生にとって肝要である。神道、仏教、儒教キリスト教、どの宗教であっても学生の自由にまかせ、決して一つの宗教を強制してはならない。
五は、過渡期で不安定な今の時代にあっては、習慣も思想もいたるところで衝突を免れない。吾塾は、朴直倹素貞淑の風をもち、一方で自由快活勇進の風を養う。守旧激進のいずれにも偏しない。学科も和洋漢を適宜に配し、女子には裁縫女礼斉家育児の要を伝える。
六は、社会との連携に注意し、夜学を開いて、晩学篤志の人を導く。外からすぐれた人を呼んで、講話をしてもらう。学生は学んだことを実際に試み、自ら発明するような塾にしていく。


3間に4間の草屋根、壁がくずれた集会所で村塾は始まった。
板の間にむしろが敷かれた。
オルガンは相馬家から借用した。
7学年に22名の生徒、教師は井口喜源治たった一人だった。
研成義塾は、こうして始まった。