<研成義塾2>  井口喜源治と清沢洌、そして内村鑑三


 明治の時代というのは、とてつもない大転換を短期間で成し遂げた時代だった。
 明治維新からわずか5年で、新政府は学校制度設立に着手し、初等教育は国民皆学をめざした。すでに江戸時代には、藩校、私塾、寺子屋が全国的につくられていたことから、それをベースにした学校が多く生まれ、1873年(明治7)、松本の開智学校のような西洋風の学校も建てられた。明治の教育政策は国づくりの根幹に位置付けられた。明治23年天皇教育勅語が出され、明治35年には国定教科書制度が定められ、文部省のつくった教科書が子どもたちに配布されようになった。こうして富国強兵の基礎を築く教育は、驚異的なスピードで全国に浸透した。1911年(明治44)における小学校就学率は98.2パーセントである。これは世界の先進国を上回る。
 こういう時代に、小さな小さな研成義塾は1898年(明治31)、片田舎に生まれた。先生一人、一切の公的援助は受けることのなかった学校。
 喜源治の設立した研成義塾がどんな学校であったか。研成義塾で学んだ清沢洌(きよさわきよし)は、「無名の大教育家」と題して研成義塾と喜源治の業績を回想してつづっている。そのなかから抜粋。


 「僕が研成義塾に入学したのは、小学校を出てしばらくしてからだった。友人の中には中学校へ行くものがあったが、僕のおやじは何としても上の学校に行くのを許してくれない。今から考えても、無口な、実にいい父だったが、村長や議員になることをきらって、これに応じなかったような人がらだけに、教育とか地位なんかというものに、何らの意義も発見しなかったらしい。毎日家から通える距離にあるのと、お手軽な補習教育ということで、当時木曽山林学校を卒業した従兄によって勧められて行くことになったのが、研成義塾であった。
 行ってみると、この研成義塾には先生が一人しかいない。生徒はと見ると、高等小学四箇年分の生徒と、補習科が三箇年に分かれている。つまり七つの学年にわたる生徒たちを一人で教えているのである。しかもその七学級内外の生徒の総数が三十人ばかりだったから、一学年あたりの生徒数は五人平均とはなかった。教室は一つで、前の方が高等小学校、後列が補習科である。先生が自分でチリンチリンと鈴を鳴らすと、生徒は自分の席に着く。教授の方法としては小学校を二つに分け、補習科を一つにしていた。
 一人で七つの学級を教えるのだから、地理も歴史も、代数も幾何も、英語も漢文も、すべてこの先生一人で受け持たなくてはならぬ。どれだけ学問が深かったかは、子どもとして知る由もなかったが、ただこの先生が何でも知っているのには驚きを禁じ得なかった。」

 生徒だったとき、清沢洌謄写版で印刷して同人雑誌を出していたという。夜遅くまで原稿を書き、幾晩もかけて鉄筆を握って原紙を切り、印刷をした。一里近くもある家まで帰ると、夜中の12時になることはしばしばだった。雑誌は、二銭の値段で売った。その雑誌のなかに、清沢の次の文章がある。

 「東穂高で最も小さき建物と言ったら、我が研成義塾はその一つであろう。それは三枚のガラス障子以外は何らの西洋式を見ることができぬ。壁は砂土である。屋根は板屋である。しかしてそれは天井を持たぬ。故に雨の降る日、風の吹く日、天然の音楽はすこぶる強く僕らの耳朶(じだ)を打つのである。また先生の聖経を講ずるの間、僕らは神の大事業をいながらにして虚空に向かって見ることができる。
 校舎は二棟である。一棟は板敷きにして、一棟は畳が敷いてある。一方を教場とし、一方を今のところ女子控え室としている。男性は四十人ばかり、女生徒は都合五、六人ある。裁縫の先生はどこかへ行ったため、尋常科の裁縫専修科へ行ったものもあるようだ。だれか献身的の裁縫や音楽のできる人はないか。
 『同志社が何だ。慶応義塾が何だ。』」



 後に清沢は、『同志社が何だ。慶応義塾が何だ』を、入学せんとしてもそれが不可能な田舎の学生の反抗心だったと書いている。
 清沢洌は、1907年(明治40年)、17歳で研学移民としてアメリカに渡り、病院の清掃夫、デパートの雑役などをしながら大学で学んだ。そしてアメリカの邦字紙の記者となり、帰国してから朝日新聞社の記者、その後フリ−の言論人として欧米を舞台に活躍した。太平洋戦争が始まると、リベラリズムと反ファシズムの思想にもとづき、反戦を主張する「暗黒日記」(原題「戦争日記」)をつづった。1945年、敗戦直前に彼は急性肺炎で亡くなった。


 研成義塾のことを知り、穂高の研成義塾を三回訪れた内村鑑三は、1928(昭和3)年、「回顧三十年」と題した演説を行なっている。


 「研成義塾はまことに小なる学校であります。たぶんこれよりも小さなる学校を想起することはできますまい。校舎一棟、教師一人というのであります。その他、設備らしきものは一つもありません。それが三十年も続き、七百人の卒業生を出したというのであります。実に不思議と言わざるを得ません。もし井口君の意地がしからしめたと言うならば、井口君は意地の非常に強い人であります。意地っ張りもここに至って尊敬すべきであります。しかし意地のみではありますまい。神の恩恵が伴ったのでありましょう。
 小学教育の完備をもって全国に冠たる長野県に、井口君の現れしは不思議であります。教育とは何ぞやとの問題に対し、井口君はある種の解答を与えたのであります。教育は校舎に非ず。一人の教師が、一人の生徒と信頼を持って相対するところに行なわる、かつて米国大統領ガーフィールドが言うたことがあります。
 『理想の大学教育は、青空の下の芝生において、そこにころがる丸太の一端に総長のマークホップキンがまたがり、他の一端に一人の学生がまたがりて、そこに二人相対して問答するところに行なわる』と。
 教育は、第一に人格にかかわることでありまして、知識は第二、また第三の問題であります。何を学ぶかの問題ではありません。何を目的に、どう学ぶかの問題であります。人類の間に現れし最大の教師は、紀元前四百年に生まれし、ギリシアソクラテスでありました。彼はまことに学校教師の祖先であります。しかるに彼には校舎もなく、教室もありませんでした。ただアテナイの街頭に青年をとらえ彼らを糾問して、真理に服従せざるを得ざらしめました。教育の目的は第一に人をつくるにあります。教師まず人たりて、児童に人たる基礎をつくることができます。ペスタロッチが大教育家たりし理由はまったくここにあります。かく言いて、私は井口君をペスタロッチに擬するのではありません。しかしながら、井口君が三十年施した教育は無意味ではなかった。これにペスタロッチ的の意味があったと言うてはばかりません。井口君の生涯と事業とを批評せんとすればいくらでもできます。しかしながら、広い長野県において三十年一日のごとく、かくのごとき教育の試みられしことは、特筆大書に値します。」

 内村鑑三は、足尾銅山鉱毒被害を知って鉱毒地を視察したときに、闘いに生涯を投じた田中正造に出会った。二人は親交を深め、内村は「万朝報」記者として視察記を書き、田中正造の活動と足尾銅山鉱毒事件の実態を世間に訴えた。日露戦争においては幸徳秋水堺利彦らと非戦論を主張。無教会主義のキリスト教を唱えた。鑑三は昭和5年(1930)に歿す。70才であった。喜源治は内村鑑三の葬儀に参列し、その二年後、脳溢血で倒れ、13年に死去した。69歳であった。