<研成義塾3> 井口喜源治の教育と井口の家族、そして親友相馬愛蔵


 明治の時代、安曇野がどんなところだったか、人びとはどんな生活をしていたか。井口喜源治と研成義塾を支援しつづけた相馬愛蔵は、昭和25年、80歳になったとき回想録を書いた。そこには学校を存続させるということがどれほど大変なことだったかを記している。
 井口の研成義塾創立は、井口が穂高高等小学校を追われたことから始まった。
 井口排斥の主たる原因にはキリスト教信者であったこと、禁酒会活動を行なったこと、町に芸妓置屋をつくることに反対する運動を行なったことなどがあった。古い村の体制に批判する動きへの反動だった。生徒の保護者は、井口氏を引きとめ擁護する側と、追い払おうとする側とに分裂し、結局古い体制の排斥派の力が通った。相馬愛蔵たちはそれに屈せず、留任がならないのであれば井口氏を擁して新たな学校をおこすまでだと、行動に移した。研成義塾の最初の生徒三十人は、穂高高等小学校を退学させて研成義塾に入学させた親たちの子らであった。
 小さな粗末な研成義塾はそうして発足した。愛蔵は振り返る。


 「この地方の生活程度は日本全国のどこよりも低かった。旧松本領時代、藩の財政が逼迫し、何度も御用金の取り立てがあった。農民はことごとく疲弊して、維新後も回復に至らず、自家の生活を最低に支えるのが精いっぱいで、(研成義塾設立の)事業に寄付するような余裕はなかった。」


 そういう状況のもと研成義塾の経営と井口家の生活費はどうすればいいのか、手段は見えず、地域の人たちには金銭的に協力できる人はほとんどいなかった。三十人の生徒の納める月々のわずかな月謝のほかは、収入というものは何もなかった。


 「井口氏は清教徒的極貧のうちに義塾を護り、いっさい妥協のない生活に終始し、妻子の逼迫は一通りではなかった。氏は実に十人の子持ちであったのである。妻子は、喜源治の一徹を恨むばかりであった。」


 卒業生は、恩師の窮状を見て、何んとかできないかと思うけれども、彼らもまた一円の小遣いも自由にならなかった。何人かの卒業生はアメリカにわたって、皿洗いなどをして研成義塾へ、5ドル、10ドルと送金したが、続かなかった。パン屋を開いた愛蔵を含め東京にいた者たちは、義塾の借金返済のために二回ほど銀行に送金したこともあった。しかし東京に出てきていたものたちも生活は苦しかった。
 井口喜源治は十人の子どもをもうけた。一人は事故で亡くなる。息子の一人、病院を創立した井口倫太郎が父母のことを書いている。十人の子どもを育てながら、家事全般をきりもりし、稲作、養蚕、蔬菜栽培など、超人的な働きをした母きくのへの想い。


 「採算を度外視した義塾の経営は、年々歳々赤字を生み、近くに住む者、あるいはアメリカにある教え子たちの義捐金や親友相馬愛蔵のたびたびの援助も、借財のつのるのを、とどめるに足らず、先祖伝来の田畑を売ることになり、陋屋(ろうおく)もために傾くかと思われるほどの書籍に対する支出は、いよいよ貧しさを加えていくのであった。母は苦労に耐えて、父の事業の片棒を担い、後顧の憂いのないようにひたすら努めた。思うに母の念頭を離れなかったことは、たとえ微力であっても父の負担を少しでも軽くしようと願ってやまなかったためであろう。農閑期は、機織り機で機を織り、子女の衣類や布団などを手作りで作って、家庭経済の一助ともしていた。母は機織りについては、相当高い技術を持っていたようである。母の日常は、川の流れに回転する水車のように寸時の停滞もなく働き続け、人間可能の極限があるとすれば、まさにこれに匹敵する。父が病に倒れてからは、臥床のままの父を弟の嫁と共に、五年九ヶ月にわたり看護に明け暮れたのである。」


 喜源治の晩年、苦節40年に及ぶ実績に感銘して、県の教育当局から補助金交付の申し出があったが、喜源治は辞退した。そのことははたしてどうだったのかと、相馬愛蔵の心に複雑な思いが湧いた。


「経済難のどん底を歩み続けてきた井口氏である。喜んでこれを受けて塾の発展に向けるのであろうと予期されたことはいうまでもないが、井口氏は、補助金を受ける時は教育の上に種々当局の意向が加わることを考慮し、どこまでも義塾独自の学風を堅持することを念願してこれを辞退し、清貧いよいよ潔白であった。
‥‥
 井口氏がこの世を去るとともに、我が研成義塾のとびらはついに閉じられたのである。教育県の聞こえのある長野県のことである。少なくとも井口氏はその研成義塾を、も少し世間的に押し出すことができて、円満にその一生を結ぶことができたのではあるまいか。『彼は潔癖にすぎた』と、世間には見る向きもあろうが、私は殉教者井口氏を、そのような打算をもって見ることはできない。かつての我が友、井口喜源治をいまこうして、穂高の聖者とよぶことに決して躊躇しないのである。」


 研成義塾で学んだ斎藤茂は、農業のかたわら随想や評論を書き、「信濃毎日新聞」等に投稿、ドイツ語を学んで翻訳も行った。野の思想家として生きた彼は書いている。


 「義塾は予備校ではない。教員養成所でもない。そういう従属的もしくは第二義的のものではない。設備こそ小さく、修学の程度こそ高くないが、主義によって完成された自由独立の教育機関である。それは幼稚園から大学まで備わっていると言える。したがって義塾には修業があって、卒業がない。修業は社会にまで延長し、卒業は終世に及んで人格の完成である。
 義塾はまた英才を養う場所ではない。偉人を育てる揺籃でもない。ただの凡人をつくる修練場である。
 義塾の門を出た人が、四、五十人もアメリカへ渡った。そのうち学問を志して行った人は一人もいない。それはみな労働を目的として渡航した移民であった。先生はそれを勧めて恥とはさせなかった。ただかつての清教徒の心持ちを堅く抱かせた。後、その各々がまた学問にも励み、それぞれの道に専門家として立ち、日本移民中特異の一団として今日重きをなしているが、ただ働く者の精神を持って進み、各々つとめて途を開き、自己の姿を発見したに過ぎぬ。成功でも栄達でもない。
 その他、各地に散らばっている義塾の門徒はことごとく平凡な農夫であり、商人であり、職工である。それらは多く自己の労働に勤勉で、誠実で、そして文明人として決して恥ずかしからぬ教養を身に付けた平凡人である。無名の戦士である。もしこうした人の存在を頼もしいとするならば、義塾はこれら頼もしい人の650人をすでに社会に送りだした。」


 1915年に研成義塾を卒業した等々力古吾朗の回想。等々力古吾朗は、井口喜源治の娘婿となった。


 「研成義塾では試験はなく、試験で生徒をふるいわけなかった。行儀が悪いものがいても、『何々さん』と注意はするが、あまり厳しく叱るようなことはなかった。春秋の日和の放課時には、よく生徒を相手にテニスなどをやって、喜々として楽しむのであった。時々授業の予定を変えては、ブルターク英雄伝、アラビアンナイト、岩窟王、リンカーン伝、クロムエル伝、西遊記河口慧海チベット探検記などを読んで聞かせ、それは非常に面白く感激を持って聞いたものである。」