野の記憶   <9>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 安曇野をめぐる人々の幾人かから安曇野の地と時代を眺めてみる。

 明治の時代、相馬夫妻は、小さな私塾・研成義塾を穂高に創り地域の子らを育てる井口喜源治の強力な助っ人になった。キリスト者内村鑑三は、「教育は校舎に非ず、教育機関の完備に非ず、有資格教員の網羅に非ず、一人の教師が一人の生徒と信頼をもって相対するところにある」と喜源治を支援した。松本出身の作家で自由民権運動家だった木下尚江も喜源治を応援した。尚江と鑑三は日露戦争非戦論を唱え、田中正造が心血を注ぐ足尾銅山鉱毒による被害農民救済の運動にも加わる。足尾銅山は富国強兵政策の要になる重要産業だった。銅山の鉱毒は山林を枯らし、渡良瀬川の魚類を殺し、田野を不毛の地に変え、地元農民や住民に甚大な被害を与え、その未来を閉ざした。生存権を奪われた農民たちは集団をつくって直訴の行動に出る。が利根川ほとりで警官隊に力で阻止されて訴えならず。ついに正造は天皇への直訴に及んだ。だが、非情なる政府は被災地の谷中村を遊水池の底に葬り去った。正造は、「亡国に至るを知らざれば即ち亡国」という言葉を残して力尽きた。

 井口喜源治は昭和13年、68歳で没した。研成義塾出身の自由主義者清沢冽は、「暗黒日記」を記し、日本国家のファシズム、日米の戦争を批判した。

 明治四十年、安曇野堀金村で山田多賀市は生まれた。彼は旧制小学校を四年で中退すると奉公に出て建設作業員や瓦焼きの職人として各地を歩いた。19歳の時、伊那谷の発電工事場で働く。21歳の時、日本農民組合青年部に加入して、農民解放運動にも参加した。厳しい労働であったが、そのなかで彼は小説を書く。が、昭和の時代は左翼思想への弾圧が厳しく、彼も反戦思想を官憲に疑われた。やってくる徴兵を逃れるために彼は苦肉の策に出た。自ら死亡診断書を偽造し死亡届を出して戸籍を抹消、無戸籍になったのだ。昭和三年、小説「耕土」に養蚕で生きる農村を描いている。安曇野も養蚕の盛んなところだった。

 「傾斜地の桑畑から望むと眼下一望、海のように広がる桑の青葉のつきる所から、熟した黄色い麦が土を包み広々とつづいていた。農家は、裏口から入った片側に自在鍵のかかった囲炉裏がある。表から入ると、片側の厩舎(きゅうしゃ)から馬がぬっと首を出す。馬と人間が同じ屋根の下で暮らし、互いの体温によって温め合って冬をしのいでいた。」