相馬黒光『穂高高原』と井口喜源治の人生



今朝は氷点下10度を下回った。
湯たんぽを入れていたから朝まで温かく眠れたが、朝起きて着替えるとき、たちまち体温が奪われて体が冷たくなった。
朝の散歩で諏訪神社に行くと、水路が詰まって水が溢れ、境内一面にたまった水が凍結してスケート場のようになっていた。
久しぶりの快晴、周囲の雪山が青空に輝く。
田畑の雪は、日中の日射によって、昼ごろにはまだらに融けた。
ランを外につなぐと、日当たりのいい冬枯れの芝生の上で、黒い身体に気持ちよく直射日光を受けて寝そべっている。
町の図書館から、『中勘助せんせ』(鈴木範久 岩波書店)と、再び相馬黒光のエッセイ『穂高高原』を借りてきて読んでいる。


黒光の文章は、こんこんと尽きぬ味わいがある。
井口喜源治の『研成義塾』について、黒光の正直な想いがつづられているところがあった。
エッセイの題「出で来し後に」の中にある「井口氏の悲劇」。
井口喜源治は内村鑑三キリスト教無教会派の信仰者であった。
彼の信仰は教育の中に現れ、その実践が住民との間に確執を起こすこともあった。
相馬愛蔵と黒光は、穂高の地を離れ、東京へ出てパン屋を起こしていた。
井口喜源治と研成義塾のことは、風の便りに聞き、胸をいためていたのである。


「私たちは後に何の気がかりを持つのであったか。
それは井口喜源治の研成義塾が大いに理想を行いながら、村のごく少数にいれられるのみで、
塾そのものもますます孤独にとじこもり、どうやら教育界の継子(ままこ)のような位置に堕していくという風のたよりによるものであった。
井口氏が宗教的であると同時に、あるいはそれ以上に芸術的文学的であったことは誰しも記憶するところで、
それはまた教え子たちが師より感受し、そうして絶えず師に惹きつけられる魅力のもとでもあったであろう。
正岡子規は、氏の傾倒してその人物作品ともに毎度教え子に語り聞かせ、あるいはそれが教材の大切な一つであったと言っても過ぎないであろう。
それほど子規の芸術を愛する井口氏は、差し迫った生活の中においても何となく余裕のある態度で、
同時にいささか教え子たちの農業に対する熱意を冷ますきらいがないでもなかった。
 生徒の多くは小農の家の子弟で、何をおいても農事に精出し、あしたには星をいただいて出で、夕べには月影を踏んで帰る農夫の生活に徹し、余事に心を惹かれてはならぬ境遇であった。‥‥
開け行く時代に学問なくては立っていけぬことを痛感し、それゆえ我が子を尋常卒業後わざわざ研成義塾に入学させた親たちも、万水の流れの岸に若草をしいて文学談を聞いている光景に遇うてはあまりに意外で、
いったいこれは御苦労様と先生に謝すべきなのか抗議すべきなのか、いずれも判断に迷うのであった。‥‥」


黒光は、娘を研成義塾に送っていた。
十三歳になって娘は穂高から送り出されて帰ってくる。
その成長を見たとき、感謝とともに、娘の中に刻まれた井口の教育の深さも見るのだった。


「塾出身の青年たちが志を抱いて渡米し、井口氏は絶えず書信によって異境にある教え子を、
あるいは慰めあるいは励まし、
村塾の清貧洗うごとき中にあっても、教え子たちの母胎としてのつとめには、
じつにゆたかなその情愛が注がれていた。
米国にある教え子たちは各自成功を誓い、
労働から得た賃金の幾分かを塾の維持費、また将来発展の資金として送り来すことを初めから目的として渡米したのであることも伝えられたが、
研成義塾の不運であったとおり、海外に出たその人々もまた恵まれず、
結果として師も弟子も同じ宿命の中にたたかい疲れていったことは、まことにいたましい極みであった。」


井口は、不遇のうちに昭和十三年七月二十一日に永眠。享年六十九歳であった。
黒光の夫、相馬愛蔵は、井口の信念を貫徹しようとした勇猛心に敬意を表しながらも、
井口の不遇の人生は、ふるさとに自分がキリスト教を移しいれたことにもよると責任を感じていた。
明治のキリスト教アメリカ直輸入で、わが国の情況との違いに疑いを入れずに行なおうとしたことの誤り。
キリスト教が日本の文化にもたらした功績は見落とすものではないが、これを丸呑みにして、ことごとく欧米の風習どおりに従わねばならぬとした宗教界の先輩や牧師の不見識は、玉に瑕の憾みなきをえない、と反省している。
相馬夫妻の井口への友情をひしひし感じるエッセイは、明治の人間像が現代の人間社会を照らしているようにも感じる。