加藤周一と1968年

michimasa19372008-12-23



                                  なずな


録画していたETV特集を観た。
加藤周一を偲ぶ特別番組は、彼の89年にわたる人生を軸にして、日本と世界を語るものだった。
観ている途中で、もう遠く過ぎ去っていた記憶の断片が浮かび上がってきた。


M君は自殺していたという風の便りが耳に入ったのは、彼が中学を卒業してから10年以上は経っていたころだったかな。
どうして? あんなに明るく屈託なかった彼がなぜ?
哀惜と疑問が胸を去来した。
だが、その真相については何一つ明らかにしようとすることなく、ぼくは日常に埋没し、車窓を過ぎていく景色のように忘れ去っていた。
ぼくは別の学校に転勤していた。
彼を担任したことはないが、ぼくの担任学年にいた生徒だったから、在学中に何度か話し合ったことがある。
高校生だったときに一度会ったことがあり、そのとき彼は、学んだばかりのマルクスの考えを希望のように話した。


加藤周一の回想は、1968年に戻る。
1968年は、歴史の大きな節目になると加藤は考えていた。
加藤は世界を駆け巡り、1968年のチェコスロバキアでおきた出来事をも観た。
プラハの春、かつてない自由な社会をめざす「人間の顔をした社会主義」に希望を見出していた加藤の目に映ったのは、
ソ連のおびただしい戦車の進攻だった。
自由と正義の可能性を秘めた新たな社会主義の試みにたいする加藤の希望は潰えた。
絶望が心を襲った。
加藤の得た教訓は、
圧倒的な言論は戦車よりも無力だが戦車を圧倒する、
だから戦車は言論を封殺しようとする、ということだった。
同時期、世界で起こっていたできごと。
ベトナム戦争
アメリカで起きた、高揚するベトナム反戦運動への国家権力による弾圧。
日本でもベトナム反戦運動が盛り上がった。
ベトナム戦争に対して、アメリカ軍に協力する日本の、加担者としての自責が根底にあった。
そして学生運動の激化。
東大闘争が起こった。
全共闘運動は日本中に広がった。
東大闘争は、東大とは何か、の問いを投げかけるものだった。
産業と軍とに加担する学問の府への問いかけがあった。
闘争は、東大解体へと突き進み、機動隊による鎮圧へと向かっていった。


加藤周一の回想に触発されて、
ぼくの忘れ去っていた記憶の断片が水の中から浮かび上がるあぶくのようによみがえってきた。
Mは東大に進学した。
順調に進んでいれば、1968年のとき、Mは東大の3回生になっている。
これまで全く想像もしなかったMと1968年。
そのとき彼はどこにいたのだろう。
バリケード封鎖の学生たちのなかにいたのか、
それとも闘争から距離をおいて傍観している学生たちの中にいたのか。
機動隊の暴力に打ちのめされる者たちの側にいたかもしれないし、
あるいは、あこがれて入学してきた東大への希望と誇りが否定され、打ち砕かれていく悲しみにふるえていたかもしれない。
M君よ、君はどこにいたのか、
なぜ死んでいったのか。
ぼくは何一つ知らなかった。
今も知らない。
死の底に、知ることのできないその人の深い深い闇がある。
人の悲しみの奥に、底知れぬ淵がある。
録画を観ながら、
いままでまったく想像もしなかったことが頭に浮かんできたのだった。


希望と絶望、
加藤は、あの時代、閉塞感が世界を覆っていたという。
それを打ち破ろうとする動きが同時多発的に世界中で現象となって現れた。


破滅に追い込まれるもの、
抗うもの、
打ちのめされるもの、
世界を覆う閉塞感、
今、世界の閉塞状況も深刻になっている。
何かが起こる予感がする。