教師の不祥事の根本にあるもの

 800円ほどの品物をコンビニで万引きした高校教諭のことがニュースで報じられていた。信州教育界、またまた「不祥事」だ。最近、教師と警官の「不祥事」がよくニュースに出てくる。
 この「不祥事」という言葉、広辞苑を引けば、「関係者にとって不名誉で好ましくないことがら、事件」とある。「関係者」は自分たちの不名誉だと思うが、「関係者」でなければ、そうは感じない。そうすると、この場合の「関係者」は、学校、生徒、保護者、教育行政という範囲の人たちになる。しかし県民の中には、「信州人の恥だ」と怒る人もいるだろう。さらに県民外にも、「日本の教師はどうなってるんだ」と思う人もいるだろう。
 「好ましくないこと」ということでは、「関係者」であろうとなかろうと、好ましくないことは好ましくない。とすると、ここは「関係者にとって不名誉で、好ましくないこと、事件」と、間に読点「、」が必要だ。
 ところでこの「不祥事」という言葉、こういうケースにふさわしい言葉かどうか、いささか違和感がある。
 わいせつ行為、交通ルール違反、体罰という暴力行為、窃盗‥‥、こういう事件を教師が起こしている。必然的にニュースに載る。「ネコがネズミをとってもニュースにならないが、ネズミがネコをとるとニュースになる」と言われる。教師と警官がやらかすと必ずニュースになる。それにつづいて、県教育委員会と警察本部のトップが「おわび」を表明する。そして再発防止を期し、通達を下部組織におろす。
しかし、トップダウンの形ばかりの対策では何ひとつ現場は変わらない。
 こういう事件では、その教師の家族は大きな打撃を受ける。まさに「針のむしろ」だ。容疑者の子どもは学校にも行けなくなる。奥さんも外出できなくなる。免職になると、生活の道が断たれる。家族が感じる精神的包囲網は、心をむしばむ。
 その教師に教えてもらっていた学校の生徒たちにとってもショックだ。
 こういう事件をテレビが伝えるたびに、寒々とした寂寥感に襲われる。テレビはしつこく何度もニュースの時間に報道する。
 事件後の対策。学校長に教育委員会から通達が出される。再発を防ぐように教員を指導せよ。勤務の評定評価を強めよ。校長はひとりひとりの教員とコミュニケーションをとって、それぞれの教師に問題がないかどうか、心の問題も把握するように努めよ‥‥。
 しかし、管理職を通じてのトップダウンの対策は効果を生まない。
 最も重要なことが抜け落ちている。
 教師の問題も、子どもの問題も、今生きている世界で生じている。であるから、どんな学校現場なのか、教師集団の実態はどうなのか、そして個々の教師たちは何に喜びを感じ何に苦悩しているか、そこに眼を向けなければ解決しないことなのだ。
 教員のモラール(やる気)が衰退している学校は衰弱する。そして問題が起こる。モラールが盛んになってこそ、学校の教育実践は創造的に行なわれ、教師一人ひとりは喜びと楽しみ、希望を得る。そこには教師同士の連帯や協力、苦悩の共有、相互批判、間違いの是正がある。
 かつて焼け野が原から立ち上がって、新しい日本の教育を生み出そうと、世界の教育実践と研究に学びつつ、日本の風土に根を下ろし、地を這う実践を行なった教師たちが全国にいた。彼らは、全国レベルであるいは地方レベルで教育研究を交流し、目の前にいる子どもたちの現実を踏まえて、未来のために教育をつくった。ほうはいとして起こった日本の民間教育団体のエネルギーは熱烈な希望に支えられた。ひとりの世界に閉じこもらず、全国の仲間とつながって学び、知恵を発揮し、勤務する学校現場の実践に活かした多くの教師たち、その活動を支えたのが日本教職員組合だった。今その活動は大きく衰退した。
 かつて教師たちに活力を与えた教職員組合や民間教育団体は、今はどうなっているか。孤独な教師を今は誰が支えているか。共に教育実践を語り合う教師と教師のつながりは、今どうなっているか。
少ない給料で、なけなしの予算で、それでも敢然と教育をつくろうとしていた先輩たちから、今何を学んでいるか。
 現場の教師たちの実践に、理念はあるか。
 何人かの教師たちと話してみて愕然とするのは、日本の教育の歴史と遺産を知らない教師が多いということだった。
 ぼくは現場の教師の孤独と寂寥を凝視したい。