古書店で買った小説「安曇野」

会議までまだ2時間ほど間があるから、神田の古書店をのぞいてみた。
お茶の水駅から、久しぶりの東京の街、何度も来たことのある古書の街。
あの本、まだあるかしらん。
あるはずはない、もう4年ほども前のことだから、
宮柊二研究の本。
1冊何千円かの値段が付いていた。
だから迷った。
結局買わなかった。
奈良に帰ってから、買っておけばよかったかなあ、とまだ迷っていた。


歩道にそって書店が並ぶ。
店の前に特価の本が積み上げられている。
こちらは1冊500円、そちらは1冊200円。
一軒の本屋の店先に置いてある箱の中に、
ちらり目に止まった文字は、
安曇野
あれっ、
臼井吉見のだ。
こんな本がこんなところに、
赤い札が付けられていて、「特別価格3000円」と書いてある。
1巻から5巻まで、完全にそろっている。
5冊は、ひもでくくってある。


手が伸びて、本を箱から出していた。
ためらうかすかな思いの霞を、買おうと思う強い気持ちがはらいのけた。
布装丁のまだきれいな箱入り本、
「ありがとうございます」
レジにいたお兄ちゃんが、ひもを切って紙袋に入れてくれた。
「神田 本の街」
と大きな文字で印刷してある袋を提げると、ずしりと重かった。
ついでに文学書の書棚を眼でさがしてみたが、
宮柊二研究」の本は、やはり見当たらなかった。


衝動買いのような買い方だったが、なんだかほくほく嬉しい。
いい買い物をした。
臼井吉見は、安曇野の出身、地元に臼井吉見の文学館もある。
小説「安曇野」は臼井吉見の代表作でもある。
明治から昭和まで、安曇野を舞台にした大河小説だ。


東京から宿舎に帰ってきて、?冊ずつ手に取ってみる。
5巻まで、何年間かの間隔を開けて発行された。
第1巻初版は昭和40(1965)年、その後作者が病気をしたために第2巻は1970年、
第3巻は1972年、第4巻は1973年、
そして第5巻は、昭和49(1974)年。
発行時の定価は、第1巻580円、第2巻1000円、第3巻1200円、第4巻1400円、第5巻2200円。
高度経済成長の足跡が、この本の値段に見事に現れている。
これをぼくは3000円で手に入れた。
5巻のなかの?冊に、臼井吉見の毛筆のサインがしてあった。
この本を買った人はどんな人だったのだろう。


小説「安曇野」は、次の文で始まる。


 水車小屋のわきの榛(ハンノキ)林を終日さわがしていた風のほかに、
 もの音といえば、ツグミ撃ちの猟銃が朝から一度だけ、
 にわかに暗くなってきた軒さきに、白いものがちらつきだした。
   榛林には湧水がある。
  おきよは水汲みに何回往復したかわからない。
  天秤棒を肩にしたまま、二つの桶をかわるがわるつっこんで水を汲み、
  だらだら坂をのぼって、台所の二石入りの水甕(みずがめ)まで運んでくる。
 そのおきよが、勝手わきの茶の間へ顔を出した。
 「あねさまァ、とうとう雪になりましたに。おやまあ、どうして、こんねにきれえにできるもんずら?」
    良の朝からはじめたクリスマストリーの飾りつけができあがりかけていた。


明治20年ごろから物語は始まる。
木下尚江、荻原碌山、井口喜源治、中村屋夫妻が主要登場人物。
最後は、1973年。
小説は、碌山美術館で雑役をしている横山さんという人の話で終わっている。
穂高小学校を4年生でやめて、長く北アルプスから材木を運び出す馬の人足をやっていた横山さんは、
トラックが馬の代わりをするようになってから、馬を手放し、酒びたりの生活をおくるようになる。
そのころに碌山美術館ができ、その雰囲気が気に入って、美術館に住み、
無償で庭掃きや雑用をするようになった。
横山さんは、土木工事や大工が得意で、木の枝をくりぬいて鳩笛を作るのが見事だった。
ある日、常念岳の夕焼けも消えて、にわかに暮色がたちこめてきたとき、
オルガンの音が聞こえてきた。


 「のぞいてみると、隅に置かれた、倭小学校からの廃物の寄贈を受けた古オルガンの前に、
  腰を据えた横山さんの演奏であった。
  彼が手さぐりで、いつのまにか、オルガンが弾けるようになったことは、
  館長の話に出たことがあったのを僕は思い出していた。
  横山さんの弾いているのは、『信濃の国』だった。
僕がのぞいているのに気がつかない彼は、
  弾きながら、大きな声で歌いだした。
  横山さんは、くりかえし、くりかえし、歌っても、歌っても、飽きないふうであった。


ああ、このオルガン、
この前の碌山美術館50周年の式典で演奏されたオルガンだった。