「自分」を見つめた死刑囚(2)

        永山則夫無知の涙



「ノート5」から
<1月26日>


憎悪が人の思惑の中にあるのと、ないのとでは、その時その日の生き方が違ってくると思う。
目ざめの時期、おのれ固有の責苦になるが、それを通り越し、
やがて世間の仕組みを知るようになると、
他へその原因を発見する。‥‥
一個の生物と、一人の世間から逃避した者との間より、独りの狂人は生まれた、
――否、困窮がそれらの者を生ませたのか、
――否、すべて無知からの製造物かもしれん。
またあるいは狂人の戯言(ざれごと)かも
狂人は何かを公に発言しなければならないと考えている。
公もそれを認め、求めているのだ。
しかし公は、彼らは知っている。
狂人が何を言わんとしているかのかを知っているのだ。
‥‥
大差ない人間の身体、頭脳、その他もろもろ、
がしかし、その差異のあまりないところから、
貨幣という必約規定物のために霄壤というほどに (※天と地の違いほどに)
差別をつくってしまう。
これは誰の罪責でもない、人類という適当に合法的な歴史上の物体が発明した最高級の生活の知恵とでも言おうか。
‥‥
狂人は人を殺した。
だが何のためにとの理由はないのである――恐ろしいことだ。
憎悪が殺人せるほどにまで発展しているとはおそらく気付かなかっただろう。
肉親への漠然とした憎悪が、
それより離れて他の周囲の者へ、そして世間へ、
一般的に観ては考えられる悪への転化である。
狂人は狂人なりに、その転化を避けたであろうが、
冷淡ながら親切を装った周囲の者もやめさせたであろうが、
狂人は殺人を犯してしまった。
狂人は予感というものを、あるいは予期したのかはいまだ知られない。
偶然とは予想されない不可能なもの。
しかし、偶然が度重なると偶然とは言いがたくなるものである。
ある意味で、狂人はあまりに深淵を見すぎた、――人生の、人間関係の――
見なくともよい、全然不要なものであるかもしれない、見て享楽が残ればいいのだが、
往々にしてそうはいかないものである。
‥‥


「ノート3」から
<9月19日の一部>


  ‥‥
  求めたものは愛でした
  願ったものも愛でした
  探し歩いたものも愛でした
  夢見たものも愛でした


  こんなこと言えたぎりじゃない とても
  ぼくは  殺人者
  もっとも許しがたい凶悪犯
  白地に赤丸の裏を見せない国から魔という称をもらった


  人間の形をしたものなのでしょうか
  ただの物質なのでしょうか
  人間ではないのでしょうか


  おお‥‥冷血の時  あの時
  ぼくの良心は悪魔にすっかり売ってしまった
  理性なんかなかったのか ひとかけらでも


「ノート5」から
<12月31日>


   震えながら 冬の日を過ごして 煙のため息をなく
   人生の意義について 今ならはっきり語れる
   そのまえに もし 許されるものならば
   最愛するものの側に 行きたい そこで眠りたい


   まわり青い海しかない 幼い冒険のあれ そうだろうか
   どこかで見た モナリザの笑みを思わせた あの人が
   美しいものを愛する なぜならば 私の魂は汚穢の見本
   最愛するものの側に 行きたい そこで眠りたい


   枯れ葉 散る 散って舞う 並木路のすぐわきの
   ブランコ ジャングルジム 好きだった砂場 想い出のある公園
   私はベンチに座り いちょうの葉のゆくえを目で追う
   最愛するものの側に 行きたい そこで眠りたい