ドイツ人のヘルマン・ヘッセは、第一次世界大戦のとき、スイスに住んでいた。戦争が始まり、ヘッセはこの戦争は不可避だと思い、自分も志願兵になろうとした。だが強度の近眼であったから、兵士になれなかった。
ヘッセの考えが変わったのは、ドイツが中立国のベルギーに侵攻したためだった。この戦争は間違っているとヘッセは気づく。だが、ドイツの雑誌には戦争礼賛と、敵国憎悪の記事があふれていた。この時、日本も参戦し、中国にあるドイツ占領の租借地、チンタオ(青島)のドイツ軍基地を攻略して、日本の支配下に置いている。あの戦争ではドイツにとって日本は敵国だった。フランス、イギリスも敵だった。
ヘッセは新聞に文章を発表した。「おお友よ、その調子をやめよ!」と、ドイツの詩人や学者、芸術家、ジャーナリストに訴えた。
「自分はドイツ人で、ドイツを否定する最後のものだ。戦線の兵士に武器を捨てよと言おうとは思わぬ。しかし、文化にたずさわる者が血迷ってはならぬ。戦争だからといって、美しい日本のおとぎ話や、すぐれたフランスの小説が、ドイツ語に翻訳されてはならないということは肯定できない。ドイツの悪い本より、イギリスの良い本の方が良いのだと言う、分別と勇気を持とうではないか。
ゲーテは、ナポレオン戦争の時、愛国の詩はつくらなかったけれど、内的な自由と知的な良心と世界市民的な考え方によってドイツを愛することを示した。我々もこれ以上ヨーロッパの未来の基礎を動揺させることのないように、ペンで切りかかることをやめよう。戦争の征服こそ、われわれの最も高貴な目標である。人間の文化は、動物的な衝動をいっそう精神的なものに浄化することによって進歩するのだ。愛は憎しみよりも美しく、理解は怒りよりも高く、平和は戦争よりも高貴であるはずだ。」
ヘッセのこの呼びかけ、「おお友よ、その調子をやめよ!」は、ベートーヴェンの交響曲第九の合唱、歓喜の賛歌を導入するために加えた「おお友よ、その調子ではなく、もっと快い喜びに満ちた調子で歌おう」の一句を借りたものであり、ヘッセは、せめて文化に奉仕するものは、戦争熱にかられ、憎悪をあおることはやめよう、と訴えたのだった。
この訴えに対して、ドイツの新聞はいっせいに、変節漢、裏切り者と、ヘッセを弾劾し、ののしった。友人たちはヘッセを見限った。出版社はこんな破廉恥な者の本は出版しないと宣言した。未知の人からも侮辱の手紙がたくさんやってきて、ヘッセの心はいやすことのできない傷を負った。ヘッセを弁護したのはごく少数だった。その一人は、後の西ドイツ大統領になるテーオドル・ホイス、ジャーナリストであった彼は激越な評論でヘッセの人格と信念、そして権利を擁護した。ロマン・ロランはヘッセを讃え、長い友誼を結んだ。
このことを、「ヘルマン・ヘッセ 危機の詩人」(新潮選書)にドイツ文学者高橋健二が書いている。(1974年)
今の日本をどう見るか、歴史はいつも何かを示唆している。