鎌田医師とチェルノブイリ


      出会い


人生は人との出会いで変化する。
あの人と出会わなかったら、こういう人生にはならなかっただろうと思われるような、
人生の変り目がある。


諏訪中央病院の鎌田実医師は、ベラルーシチェルノブイリ原発事故の被害者を救うために14年間に渡って医師団を派遣し、
その回数は78回にものぼる。
きかっけは、北海道小樽のレストランのオーナー、猿渡肇氏との出会いだった。
猿渡氏はある日突然、諏訪中央病院にやってきて、
自分はモスクワにも会社を持っており、そこでチェルノブイリの事故を知った、
たくさんの子どもたちに大変な健康被害が出ているらしい、
白血病の子どもを助けてくれないか、
と頼んだ。
初めて出会ったその男が、鎌田医師を「チェルノブイリの救援活動にひきずりこんだ」と言う。
そうして鎌田医師はチェルノブイリに出かけていき、そこでまた大きな出会いをする。
ゴメリ州立病院の小児白血病病棟のタチアナ先生との出会いだった。
女医のタチアナ先生は、経済の崩壊した貧しい国で、子どもたちの命を守るために必死で働いていた。
鎌田先生が病院を訪れたとき、五歳ぐらいの男の子が泣きながら走ってきて、
タチアナ先生の足にしがみついた。
「先生、人間は死ぬんだね、みんな死ぬんだね」
と泣く男の子。
タチアナ先生は、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、男の子が泣き止むまで抱きしめていた。


ところが、子どもたちにとって太陽のような存在だったタチアナ先生もまた、乳がんになり、それは骨に転移する。
そして2003年、蒲田先生の励ましと祈りもかなわず、タチアナ先生は亡くなった。
いつも希望に満ちた笑顔で人に勇気を与えていたタチアナ先生は、
病気の子どもがピンチになると、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と抱きしめ、
自分がピンチになると、「なんでもない、必ずうまくいくわ」と明るかった。


鎌田先生の著書のなかに出てきた次の文章は、タチアナ先生への弔辞のように思える。

「(あなたは)いつだって奇跡を起こしてきました。
20世紀の文明がつくってしまったチェルノブイリという荒地に、毅然と立ちはだかっていました。
いつだってかっこよかった。
君は子どもたちの命を守るために、勉強して優秀な医師になりました。
よくやったと思います。
あなたは、病棟で泣いている白血病の子どものお母さんでもありました。
あなたの『だいじょうぶ、だいじょうぶ』という言葉をもう聞くことができなくなりました。寂しいです。
あなたは、お百姓さんであり、食べ物のない子どもたちのために畑を耕しました。
あなたは、病棟の子どもたちのドクターであり、お母さんでありました。
ぼくらは忘れません。あなたが口ぐせのように子どもたちに言った言葉、『だいじょうぶ、だいじょうぶ』。
21世紀になって、ぼくらの地球でわずかな間に2回も戦争がありました。
環境破壊もさらに進んでいるように思います。
地球はちっともだいじょうぶではありませんが、
子どもたちにとって、『だいじょうぶ、だいじょうぶ』と言えるような世界をつくらないといけない、
あなたの心を伝えていかなければいけないと思っています。」
                  (『それでもやっぱり、がんばらない』)


タチアナ先生は蒲田先生に出会って励まされ、
蒲田先生は、タチアナ先生によって勇気づけられ、
2人の生き方から、さらに多くの人びとが希望を与えられている。
出会いを大切にしたい。