祈り

      まりつきの祈りの如くなりゆきし

学生時代、友人のいーさんはこの句を作った。
句会に出たこの句は忘れることができない。
彼は「十七音詩」の会員だったと思う、同人誌に彼の句は既に掲載されていた。
子どもが手まりをついている。
つきつづけていくうちに、祈りの姿になっていった。
手まりをつくことに集中している子どもの真剣さは、どこか祈りに似ていると、いーさんは思った。
そういーさんは感じたのだけれど、そう感じるのはいーさんの心に、祈りがあったのではないだろうか。
まりつきの子どもを見ていて、いーさんの心のなかの祈りが現れてきたのだ。


それから三十年以上が過ぎた。
「いーさんさんが死んだよ。」
伝えてくれたのは、当時の同級生だった。
ぼくは驚愕した。
だが、同級生は淡々と話してくれた。
電車のホームから飛び降りた自殺だと言う。
「どうして、どうしてなんや。」


「自殺」という言葉があまりに生々しい。
自死」といって欲しいと思う。
でも自分を殺したのだから「自殺」にはちがいない。
また思う。彼を追い込んでいった情況があり、だから彼は自ら死を選んだ。
ならば「自死」ではないか。
自死」という言葉に初めて出会ったのは、高史明さんの本だった。
高さんの子どもが飛び降りて死んだ。
それから高さんの、子どもの死の原因、子どもの心をたずねていく長い旅路が始まり、
親鸞の「歎異抄」と出会う。
高さんの人生は、祈りの人生であるように思う。


地震やサイクロンの被災者の悲惨、戦争被害者の絶望、それらに対して自分は何もしていないけれど、心に祈りがある。
人間の心の奥底には祈りがあるが、平穏無事な日常においては、祈りは意識に上らない。
自分や家族の不幸、社会の悲惨な現実に出会ったときに、無意識界にある祈りが意識に上ってくる。
神に祈る、仏に祈る、ということもある。
特定の神や仏ではなく、ただただ自分の心に念じる祈りもある。


遠藤周作は、小説「沈黙」や「イエスの生涯」で、神をテーマにした。
「仏教では、仏の働きは心の底にあるとあると言います。
働きがあるというのは、本当にそれがあることだから、
神とかキリストとかいうのは、働きだとまず思ったらいいのではないでしょうか。
神とは自分の中にある働きだ、と私は考えているのです。
それは、自分の心の中でそういう気持になるのか、あるいは自分の意思を超えてそうなるのか、
非常にあいまいなものが心の中にあるでしょう。
その働きをキリストと言ったり、仏と言ったりするんじゃないだろうかと、私は思っているわけです。
くりかえして言うと、神の存在ではなくて、神の働きのほうが大切だということなのです。」
                  (「私にとって神とは」光文社)


いーさんが自死にまで行ってしまった、その心を知りたいと思う。
亡くなっていったいーさんの祈り、それを知ったぼくの祈り。