学さんと再会


             
土曜日の夕方、地球宿の望さんから電話があった。
「今、学さんが来ているんだけど、ちょっと会いたいというから来れませんか。」
我が家にも来客があったが、ここ10年ほど会っていない学さんだから顔でも見に行くかと出かけた。
地球宿の薄暗い古民家の居間では、望君の家族と客の3人が食事をしていた。
板の間の居間に上がると、学さんが、
「やあ、ひさしぶりだねえ。」
昔の仲間とのあいさつだから、「よう、よう」と軽く、そっけないぐらいのぼく、
彼は箸をおいて立ち上がり、笑顔で手を差し出してきた。
学さんの手は柔らかく、思い切り強く握りしめてしまった。


学さんは、それまでビールを飲んでいた。
「焼酎にする?」
望君が訊くと、学さんはもう少し飲みたいらしい。
望君は焼酎の小瓶を学さんの前においた。
学さんはよくしゃべった。
学さんが今仕事としている、「子どもクラブ」と「不登校・ひきこもり」の教育活動のことが中心になった。
元中学・高校の教師であった彼は、自分の家の1室をホームスクールのようにして、夫婦でサポート校の活動をつくっていた。
望君が、疑問を提出した。
「どうして不登校やひきこもりが起こるの?}
ぼくが初めて学校現場で生徒の不登校を体験したのは、1980年だった。
80年が現象を顕在化させたときであるということは、顕在化に向けての原因が何年も前から存在していたということだろう。
原因の潜伏は10年や20年ぐらい前からはじまっていたとも考えられる。
昔にはなかった現象、それはその後どんどんエスカレートして増えている。
「40人のクラスには2人の不登校の子がいるよ。」
それが平均的だと彼は言う。
何が原因かと聞かれて、学さんとぼくは原因に思えることを出していった、
改めて考えていくと、あまりにその原因たるものが茫洋としていて、その子の家庭と生い立ち、その子の住む地域社会、学校・学級という世界、現在の社会状況などのなかに潜む原因は言葉になりにくかった。
渾然としたなかに潜む総合的なもの、それらを特定する言葉が見つからない。
「昔は、不登校は存在しなかったね。」
「親も地域も学校も、認めなかったもの。」
「今は、とじこもる条件があるからとじこもる、それは言えるね。」
「30歳になってもひきこもるのは、それができるからだよね。」
「働かなければ生活できない時代に、ひきこもりなんかできないわね。」
発展途上国の子どもは、生活のために学校へ行けないというのはあるけれど、
現代の日本のような状況は存在しないよね。」
「美紀子さんは、どうしている?」
ぼくは昔の研究会の仲間だった人のことを学さんに訊くと、
ミャンマーへ行って、4年目になるよ。もうミャンマーから離れられないんじゃないか。」
ミャンマーへ日本語を教えるために彼女は単身出かけた。
「あの国の政情のなかで、よくやっているよ。地域の人からすごく慕われているんだね。」
美紀子さんは、公立学校教師の定年を待たずに早期に退職してミャンマーへ行ったのだった。
「食べるものも充分ではない発展途上国の子どもたちのほうが、日本の子どもより笑顔が多いんだね。」
あの子どもたちに触れたら、日本人の元教師は、とりこになってしまう。
では、日本の社会はいったいどうなっているんだ。
ぼくがここ10年、単身やろうとそしてなかなか実現できなかったことを学さんに話した。
学さんの実践は、すでにある組織体の一端を実践の場にするものだった。
自らゼロから舞台を立ち上げていくよりも、志を同じくする人たちとつながって既にある舞台を活用していくほうが、可能性が高い。
それはここ10年の実践から感じ取ってきたことだった。
学さんに会えてよかった。
再び湧いてくるものがあった。
これからやろうとする一筋の道へ。


帰りがけに、望君が、
「明日のこのチケット、行かない?」
見ると、「早春賦音楽祭 本ステージ」のチケットだった。
場所は、穂高会館講堂、4月から行なわれてきた「早春賦」のイベントの最終だった。
2枚、喜んでもらって帰った。
日曜日午後、出かけた。
地元安曇野、松本、塩尻の小学校・中学校の合唱部、鐘の鳴る丘合唱団の歌、ソプラノ歌手の歌など、多彩な内容だった。
「鐘の鳴る丘」は、戦後NHKラジオで放送されたドラマだった。
穂高の丘に、戦災孤児の施設のモデルになった「鐘の鳴る丘」がある。
東京からこのコンサートに参加するために前日車を飛ばしてやって来たというご夫婦と隣り合って座り、おしゃべりすることができた。
定年退職後年金生活をしていて、コーラスをやっている、このコンサートを知って是非聴きたいと思って来た、昨日は山葵田と穂高川のほとりの早春賦歌碑に行った、いうことだった。
私たちが奈良から移住して来たということ、その思い切りと自由さにたいへん関心をもたれているようだった。
コンサートが終わればすぐ車で東京への帰途に着く、安全運転で無事に帰ってくださいよ、
そのときだけの友人との別れだった。