屋久島に住み、心にしみるエッセイを書いた山尾三省さんは、1988年、「自己への旅」というエッセイ集を著した。三省さんはインドを遍歴して、屋久島に帰り、コミューン「部族」に参加していた。
今は亡き三省さん、彼は「自己への旅」のなかに、仙台で出会った一人の百姓の話を書いている。その人は、菅田重利さん。
百姓・菅田さんの農を支えたのは宮沢賢治だった。
賢治は、学校の教員を辞めて、羅須地人協会をつくり、百姓をしながら若者たちと学問と芸術を暮らしの中に育んでいった。賢治は、近在の農家の米作りの指導にもたずさわった。東北地方は、たびたび冷害と凶作に襲われてきた。賢治は、寒冷な気候に強い陸羽百三十二号という稲の改良品種を推奨し、農家の指導に全身全霊を捧げた。
賢治死後、五十年以上がたっていた。菅田さんはその品種の稲を探し回り、それを見つけ出し、その種もみを自分の田に蒔いた。
菅田さんのつくった「心土」と題する詩がある。
心土
かつて作土のさらなる基層を
心土といった。馬踏みともい
い、人はここに水をため、オ
リザ、いのちの富草を育てる。
そしてそれは生の糧を土の糧
に、生涯この心土めがけて田
を打つという生きるスタイル、
ゆうゆう三千年も風土や水土
と呼ぶ僕らの様式を育くんだ。
僕はこの存在様式がこの国の
最たる美しさなのだと思う。
神々のすむ山に向き合い労働
と祈りが一つであるような
生命の河床、心土を伝え、
僕らは僕らの死が自然浄土の
ように生かされているトボス、
僕らのすむ心の所在をすでに
待っていたのだ。
三省さんは、この詩で、初めて「心土」という認識をもった。
三省さんは、書いた。
田畑の土は、作土と心土の二つに分けられる。作土とは表面に近い作物の根を張る層、その底で作土を支える深層が心土なのだ。
「自己への旅」で、この「心土」という言葉に僕が出会ったとき、確か賢治もこの言葉を使っていたように思う。
菅田さんは三省さんに言った。心土は浄土であると。
心土という言葉を残していった祖先の霊を祀るのでなければ、僕らは決して子孫の夢を見ることもできないであろう。何千万人、何億人、祖先の百姓たちが弥生文化の時代から、心土めがけて鍬を打ち続け、その真っただ中で、そこに心土があり、浄土があることを確かめつづけ、そのことによって現実の日本の風土そのものとなった水田の風景が生まれ、それを保ち続けてきたのだと。
それを聞いた三省さんは、思った。
弥生文化もまた縄文文化の一部ではないか。作土の基層にあって作土を支えているもの、それは縄文文化の精神であり、百姓たちがそこをめがけて、鍬を打ち続けてきたというからには、真実は縄文にあったのではないか。
僕は、岩手の現代を考えているうちに、その基層へ想像が走った。岩手には古代までアイヌなど先住民族が住んでいた。確かにそこには縄文時代と同じ、自然と一体化し、自然への祈り、信仰の厚かった文化が存在していたのだと。