前立腺切除 (2) 


        入院生活 ヒポクラテスの木


手術が終わって、その日の夕方ごろに麻酔も切れた。
村田医師が来て、状態を訊いてくれた。尿道に挿入したカテーテルは尿袋につながっていて、
出血混じりの赤い液体がたまっていく。
「色はきれいですよ。水の中に数滴の血液を落としても、赤くなりますからね。大丈夫です。」
見た目に真っ赤に見えても、そんなに血液は混じってはいないということだった。
翌日、点滴注射管を腕に差し込み、尿袋も付けたまま歩くことをはじめた。
できるだけ早い段階から歩く、それが回復を促進する、その考えをTVのドキュメンタリー番組で知っていたし、医師も看護師も伝えてくれたから、点滴台車を押しながら廊下を歩いた。
歩かない時は、用意してきた一冊の本を読み、頭に浮かんだ想念をノートに書き、俳句をつくったりした。
看護師の大月さん、ぼくがベッドに腰掛けて何かをノートに書いているのを見て、
「ブログを書いているんですかあ。」
「はっはっは、ブログです。」
「私も書いているんですよ。」
大月さんは携帯でブログを書いていると言う。
入院中ぼくはインターネットができないからノートに原稿を書いている、大月さんにはそれがブログだと分かるのだねえ。
入院3日目、窓際のベッドに寝ているNさんと親しく話すようになった。
Nさんは、大腸癌の手術をしたが、さらに転移の恐れがあり、抗癌剤を打つことになっているということだった。
窓のカーテンを開けると、病院の庭に5、6本の大きな桜の木があった。
つぼみはピンク色にふくらんでいたが、花はちらほら咲き出したところ。
「やっと咲きはじめたねえ。」
「そうだねえ。」
散歩は、病院内の廊下をぐるぐる歩く。限られた空間だが、窓から発見するものがある。
四面を建物に囲まれた坪庭に、プラタナスが新芽をふき始めていて、赤い椿の花が咲いていた。
ここにどうして花が咲いているのが分かるのか、ヒヨドリの1羽がしきりに蜜を吸っていた。
プラタナスは3階まで背丈が達するほどの大きさになっていた。


そのときは気づかず、4日目発見したことは、そのプラタナスに物語があることだった。
2階の病室から1階に下りて、廊下からガラス窓越しにプラタナスを見ると、古ぼけた説明板がある。
そこにこんなことが書いてあったのだった。
「これはヒポクラテスの木です。」
ギリシャの東エーゲ海にコスという島があり、その島に一つの町がある。
その町の真ん中には広場があり、そこに一本の大きなプラタナスの木が生えている。
木は、樹齢3千年、幹周りは10メートルを超え、中は空洞化している。
今から2400年ほど前、世界医学の祖と言われるギリシャヒポクラテスは、この木の下で、弟子たちに医を説いた。
それからこの木はヒポクラテスの木と呼ばれるようになった。
1980年5月1日、ギリシャ赤十字は、ヒポクラテスの木の種を日本に贈った。
種から芽が出たヒポクラテスの木は、安曇野赤十字病院のなかですくすく育った。
それがこの木である。


わずかな行動範囲の生活の中にも、物語はある。
西に大きく窓を開いている廊下がある。
よく晴れた日は、常念岳から蝶が岳にかけて雪の稜線が見える。
病院敷地内に水仙が咲き、梅が花開いている。
ツバメが帰ってきていた。
1羽のツバメが窓をかすめるように飛び、巣作りの場所を探していることが分かった。
軒の内側を見ると古巣がいくつも並んでいる。


ぼくが手術をした日の午後に同じ症状で手術を受けられたKさんと親しくなった。
病室は別だったために、声をかけそびれていた。
「調子はどうですか。」
その一言から急速に親しくなり、話が弾み冗談も言うようになった。
症状を語り合うことから話が始り、広がる。
彼は、野生の福寿草がたくさん咲いている四賀村の住民だった。
四賀村は標高800メートル以上あり、そこから槍ヶ岳の穂が見えると彼は言う。
「槍の穂を基準にして北にどれぐらいとか南にどれぐらいとか、私たちのところでは槍の穂を起点に位置を説明するんですよ。」
おもしろい話だった。穂高岳も見えるという。
一期一会の病棟の友だが、病をいやすという目的を共有し、過去の一切を人間関係のなかに持ち込まないで、互いにいたわりあう裸の付き合いが純粋な親密性を生み出すのだった。
同室のNさんとも、いろんな話をした。
Nさんの自宅近くにある養豚場が糞尿を野に捨てていて、そこからメタンガスが発生し、困っている、養豚場も行政も一向に改善対策をとらないのだという。
この地域でも環境問題が、大きな問題になりそうだ。
5日目、6日目、「M・O・H 通信」(循環型社会システム研究所発行)を読みながら、これからやれることを考えた。
病室は暗いから、消灯の夜9時近くまで、談話室や待合室で本を読んだ。
暖かくて、よく本が読めた。