ヒポクラテスの樹  

    ――入院・手術・療友――


 ヒポクラテスの樹



9日に入院し、10日に喉の中のできものを摘出するという急ピッチでしたが、
安心してお任せした最上先生の確かな腕で手術もうまくいき、全身麻酔から覚めた翌日の11日にはもう院内を歩き回り、
廊下の端から雪の街と山を眺めながら、気功六段錦をやったり毎日本をせっせと読んでおりました。
摘出した日の夕刻、先生が摘出部分を持って病室に来て、家内とぼくにそれを見せて説明してくださったようで、
ぼくはそれを見て返事もし、意識もしっかりしていたようなのに、翌日にはその記憶が全くありません。
麻酔から完全に覚めるにはまだ時間が要ったようです。
病室は四人部屋で、ぼくのほかにお二人の患者がおられ、お二人とも脳梗塞のために入院されていました。
ぼくと同姓で同年齢のYさんは、軽い脳梗塞のようで、
「体の様子がおかしいで、自分で車を運転してきて‥‥」
診察を受けたら、即入院となったと、
少し聞き取りにくい発音で話されます。
体半分と言語に少し障害が残った程度で今月末ぐらいまで入院するかもしれないとのことです。
もう一人のWさんは体の麻痺が重いようで、
上半身を起こしてもらい、食事を自分で食べておられますが、
歩くことはまだできません。
言葉が話せないという障害も残り、リハビリをしておられます。
「あ・い・う・え・お・あ・お、か・き・く・け・こ・か・こ」と、毎日声に出し、
ぼくの手術が終わって部屋が変わって、同室になった日に、
 「きしゃを 待つ きみの よこで
  ぼくは 時計を 気に してる
  季節 はずれの 雪が ふってる‥‥」
と、どこかで聞いたことのある文章を、とつとつと声に出しておられます。
この文章なんだったかなあ、とそのまま思い出せないままにしていたら、
奥さんと娘さん、看護師さんが来られて、
すごい、すごい、話せるようになったじゃないの、『なごり雪』を読んでるの?という声を聞いて、
なごり雪』という題名を思い出しました。
ベッドを囲んで、家族と看護師さんがにぎやかな会話をしておられるとき、
Wさんが、「あ ん ぽ とう そう」と、しゃがれた声でぽつんと言われ、その意味がみんなに分からないまま過ぎていきました。
昨日も今朝も目が覚めたら雪でした。
これが今年最後の雪になるでしょうと言いながら、毎日朝まで夜のうち雪が降ります。
Wさんが、「安保闘争」と言われたのは、どういうことだろう、
1970年代に大ヒットしたフォークソングの名曲で、
日本の早春を代表する歌のひとつとして歌い継がれてきた歌です。
かぐや姫」の楽曲、「イルカ」が歌いました。
40年前、Wさんの人生とどこかでこの歌は接点を持っていたのかもしれず、
その人生も「安保闘争」が絡んでいたのかもしれません。
この歌を誰がリハビリに使おうとしたのだろう、看護師さんだろうか、
家族だろうか、偶然だろうか、
それともリハビリのなかに既に準備してあったものだろうか、
外の雪景色ともぴったり合う歌詞の響きでした。
たまたま同じ部屋になった治療仲間にすぎないけれど、
心の通い合うものがあります。
Yさんとは少し話せました。
定年までは兼業農家だったけれど退職してから農業だけ。
リンゴの樹が6本あって、
その実が稔ると、近所の保育園から子どもたちがリンゴを採りにやってくる、
100人の子どもたちは、1個リンゴを食べて、1個お土産に持って帰る、
ときどき図書館から紙芝居を借りて、保育園で紙芝居を子どもたちに見せている、
そんな話を聞くと、Yさんの人柄が分かります。
続けてほしい、元気に、と思います。
入院仲間、「療友」という言葉はあるのか、ないのか、
これまで手を大怪我して入院したときも、一昨年前立腺で入院したときも、
病室の相部屋になった人とは、わずかな日数であっても、心の通う親しい間柄になりました。
入院患者の一人ひとりは、さまざまな人生のはかりしれない物語を秘めておられます。
その物語の一端を聞かせてもらうことは、うれしいことです。
そして、看護師さんたちの優しさ、明るさ、患者の心に寄り添うように接しておられる姿は、美しいものでした。


ぼくの術後は経過もよく、15日退院と先生は言いましたが、
土曜日曜と入院していても、治療するわけでもなく、
何かトラブルが起こらないかどうかという経過観察だから、
「二日早く退院できませんか。」と先生に頼んでみたら、
大丈夫のようだし、じゃあそうしましょう、ということで、
今朝退院となりました。
おかげでゆっくりバンクーバーオリンピックの開会式を観ることができました。


病院の建物の間に小さな坪庭があり、そこに1本のプラタナスの樹があります。
3階まで梢を伸ばしている樹は、だれにも注目されることがなく、
渡り廊下からガラス窓越しに見ると古ぼけた説明版のあることに気づく人もありません。
プラタナスの樹は、和名が「すずかけ」、ピンポン玉ぐらいの茶色の実がまだ枝にいくつか残っていました。
初夏には、大きな葉を茂らせ、緑色の丸い実をつけます。
武漢大学の森にも、青島(チンタオ)の街路樹にもプラタナスの大木が天を突いて茂り、
秋には丸い実を枝先がしなうようにつけていました。
病院の説明板にはこんなことが書いてありました。


         「ヒポクラテスの木」

 この「ヒポクラテスの木」は、ギリシャ本土の東エーゲ海に浮かぶコス島にある「ヒポクラテスの木の原木」の種子から、発芽育樹したもので、日本赤十字社創立百周年(昭和52年)を祝って、ギリシャ赤十字社から寄贈されたものです。
 原木の由来は、世界医学の祖ヒポクラテス(紀元前470〜360年)の故郷であるコスの町の中心にある広場に、今も大きな「プラタナスの樹」が一本あり、ヒポクラテスは晩年、その生い茂った「プラタナスの樹」の木陰で弟子たちに医を説いたと言われ、いつの頃からか「ヒポクラテスの木」と呼ばれています。
 樹齢は推定三千年以上の老木で、樹幹の周囲が十メートルを超え、中は空洞化した巨木です。
 ヒポクラテスを象徴する木として、人類にとって最も神聖な木であると言われています。
 当院には、昭和55年5月1日の日本赤十字社創立記念日に植樹されております。


病院の建て替えが進められており、今の建物は壊されることになっています。
この樹を守らなければならない、新たな課題ができました。