人と街路樹の関係


 職場に向かう南松本のその道は、街路樹の新芽が勢いよく伸びていた。あざやかな新緑にはさまれた道路は、一変して心を和ませる緑道に変わっている。生きる力を感じる街路樹はすばらしい。並木で思い出す。
 転校した小学校の中を小川が流れていた。小学1年生のぼくの教室は、小川に架けられた渡り廊下の橋を渡ったところにあり、校舎は小川に沿って建てられていた。校門を入ってから木造の本校舎の廊下を折れ曲がりたどっていくと、小川が眼下にある。その小川に沿って、プラタナスの並木があった。スズカケノキという和名を持つその木は、太い幹を小川の上にかぶさるように傾斜して茂っていた。校舎は東西に建てられていた。冬になると、プラタナスは大きな葉を落とし、枝ばかりになった。授業の合間の休憩時間、子どもたちは外に出てプラタナスの並木と校舎の間にたむろした。校舎が北風を防ぎ、太陽は枝越しに光を注いで、子どもたちの身体を温めてくれた。
 「なんよう、なんよう、なんようへ行こ」
 子どもらは、口々にそう言って、暖房のない教室から出てきて、葉を落としたプラタナスを見上げ、校舎の壁を背に日向ぼっこした。「なんよう」というのは「南洋」のことだ。既に戦争は末期の状態にあったが、そんなことは、子どもたちは知らず、南太平洋の戦線では玉砕がつづいていた。プラタナスの並木は、初夏になると新芽をふき、たちまち小川は緑に覆われ、校舎もまた緑陰になった。夏休みが近づく。男の子たちは、休み時間になると、プラタナスの幹をはいのぼっているカミキリムシを見つけてはつかまえ、二つの牙のあいだに草の茎をはさんで、食いちぎらせる遊びを楽しんだ。そしてやってきた夏休み、はだしで遊びまわって帰ってきた8月15日の正午、戦争は終わった。
 それから半世紀以上も経って、中国の武漢大学のプラタナスに出会った。宿舎の2階の部屋の窓の外に巨大なプラタナスが生えていた。宿舎の玄関を出て右へだらだらと坂を下ると東湖に出る。反対の方角には大学の広大な森がある。宿舎の裏側には山があり、ぐるりと山腹を徒歩で回れば30分ほどかかった。100年以上前に、国の未来を担う人材を育てるために、森と山と湖をキャンパスにしてつくられた大学は、自然の庫であった。プラタナスは宿舎の3階を越えて高く茂っていた。カササギがこずえで鳴く。秋には丸い実が、その名の通り鈴を振るように実った。
 学内には、網の目のように、車の通る道と、歩く学生たちの道があり、どの道も各種の街路樹が道を覆い、したたる緑のトンネルをつくっていた。プラタナスの並木道、桜の並木道、ケヤキ、針葉樹の並木、それぞれ道につけられた名前があり、庭園があった。初夏の濃厚な緑は、学園の空気を芳醇にした。
 中国の各地を旅したとき、田園地帯にも天を突くようなポプラなどの並木が、えんえんと続いていた。青島(チンタオ)にも暮らしたが、街区の道は、自然な姿で茂る街路樹が心をいやした。
 街づくり、国づくりのインフラストラクチャー計画のなかに、街路樹、並木道は重要な役割を果たしてきたことが伺えた。人間の暮らすところ、育つところ、学ぶところ、そこに何が必要なのか、欠かせないものへの認識について、現代人の欠如した思いを憂えている。