宿が「サン・パウ病院」から道路を隔てたところにある。旅に出る前に、「サン・パウ病院」が世界遺産であるということを知ったものの、いったいどんな病院なのか、なぜ世界遺産なのか、肝心のことは何も知らないままに出かけた。バルセロナでの第一夜が明けてすぐ訪問しようと、病院の建物正面に来て建物を見た途端、息を飲んだ。空を突き刺す尖塔は時計台だ。ぬくもりのある褪せたレンガ色、三階までの窓のアーチの間、壁面に彫刻がある。病院の起源は1401年に遡るが、後に、病院の統合など変遷を経て、1902年から建築家モンタネールが「芸術には人を癒す力がある」という考えで設計した48の建築群が1930年に完成、それが現在の世界遺産となった。モンタネールはカタルーニャ音楽堂も設計している。
さわやかな快晴、美の殿堂のような病院のいくつかの建物の中にはいった。医療活動は2009年まで行なわれてきて、その後は隣にできた新しい病院で行なわれている。
院内のアーチ型の高い天井に施されたタイルの図案、ステンドグラスの窓、建物構造は細部に渡って芸術性をもっている。各病棟は地下一階の通路で繋がっていて、地下通路にも地上の陽の光が取り込まれていた。病を癒すためには、心を安らかにし、心を癒す環境が必要だという考えからか、病棟と病棟の間には大きな広場があり、ベンチもすえつけられている。自然の中で、自由に散策できる広い庭の樹にはミカンのような実がなっている。
ぼくらは陽が降り注ぐ青空のもと、ベンチに座って美しい建物を見、小鳥のさえずりを聞いていた。患者たちは、芸術と自然と愛の精神に包まれて暮らすことができる。
ぼくは安曇野赤十字病院が建て替えられる時のことを思い出した。
あのとき、こんなお願いの手紙を病院長に送った。
「ヒポクラテスの樹」に願いを込めて
私はこれまで二回の手術を赤十字病院で受け、誠実な治療をおこなっていただき、快適な入院生活を送って快癒いたしました。深く感謝しております。
二回目の入院では、病室は四人部屋でした。おひとりのYさんは、軽い脳梗塞のようで、体の様子がおかしいので、自分で車を運転してきて診察を受けたら、即入院となったそうです。もう一人のWさんは体の麻痺が重いようで、歩くことはまだできません。言葉の障害も残っていました。五十音を声に出し、
「きしゃを まつ きみの よこで
ぼくは とけいを きに してる
きせつ はずれの ゆきが ふってる ‥‥」
と、どこかで聞いたことのある文章を、とつとつと声に出しておられます。奥さんと娘さん、看護師さんが来られて、
「すごい、すごい、話せるようになったじゃないの、『なごり雪』を読んでるの?」
それを聞いて、『なごり雪』という題名を思い出しました。
ベッドを囲んで、家族と看護師さんがにぎやかな会話をしておられるとき、Wさんが、「あ・ん・ぽ・と・う・そ・う」と、しゃがれた声でぽつんと言われました。
その日も前日も、目が覚めたら雪でした。これが今年最後の雪になるでしょうと言いながら、毎日雪が降ります。Wさんが、「安保闘争」と言われたのは、どういうことだろう、1970年代に大ヒットしたフォークソングの名曲「かぐや姫」と、40年前のWさんの人生の「安保闘争」とのつながりを私は思いました。この歌を誰がWさんのリハビリに使おうとしたのだろう、看護師さんだろうか、家族だろうか、偶然だろうか、外の雪景色ともぴったり合う歌詞の響きでした。
Yさんの方は、定年までは兼業農家だったけれど退職してから農業だけをしてきました。家にリンゴの樹が6本あって、その実が稔ると、近所の保育園から子どもたちがリンゴを採りにやってくる、100人の子どもたちは、それぞれ1個リンゴを食べて、1個お土産に持って帰る、ときどき図書館から紙芝居を借りて、保育園で紙芝居を子どもたちに見せている、そんな話を聞きました。
「療友」という言葉はあるのか、ないのか、私はこれまで、大怪我して入院したときも、一昨年入院したときも、病室の相部屋になった人とは、わずかな日数であっても、心の通う親しい間柄になり、よく会話しました。
入院患者の一人ひとりは、さまざまな人生のはかりしれない物語を秘めておられます。
「会話は、リハビリにもなりますよ。」
と言うと、Yさんもうなずきました。看護師さんたちの優しさ、明るさ、患者に寄り添うように接しておられる姿は、とても美しいものでした。
一昨年入院したとき発見したのですが、病院の建物の間に小さな坪庭があり、渡り廊下からガラス窓越しに見ると、1本のプラタナスの樹があります。院内散歩で私はその樹を眺めます。3階まで梢を伸ばしている樹は、人に注目されることもなく、木の手前に古ぼけた説明版があるのに気づく人もありません。プラタナスの樹は、和名が「すずかけ」、新芽がふくまではまだまだです。枝にはピンポン玉ぐらいの茶色の実がまだいくつか残っていました。この樹、初夏には、大きな葉を茂らせ、緑色の丸い実をつけるでしょうか。
病院の説明板にはこんなことが書いてありました。
「ヒポクラテスの木」
この「ヒポクラテスの木」は、ギリシャ本土の東エーゲ海に浮かぶコス島にある「ヒポクラテスの木の原木」の種子から、発芽育樹したもので、日本赤十字社創立百周年(昭和52年)を祝って、ギリシャ赤十字社から寄贈されたものです。
原木の由来は、世界医学の祖ヒポクラテス(紀元前470〜360年)の故郷であるコスの町の中心にある広場に、今も大きな「プラタナスの樹」が一本あり、ヒポクラテスは晩年、その生い茂った「プラタナスの樹」の木陰で弟子たちに医を説いたと言われ、いつの頃からか「ヒポクラテスの木」と呼ばれています。
樹齢は推定三千年以上の老木で、樹幹の周囲が十メートルを超え、中は空洞化した巨木です。ヒポクラテスを象徴する木として、人類にとって最も神聖な木であると言われています。
当院には、昭和55年5月1日の日本赤十字社創立記念日に植樹されております。
こんな説明でした。
今新しい病院の建設が進められています。「ヒポクラテスの木」はどうなるのだろう。この樹を守ってほしいと思いました。たぶん実からも新しい苗は採れるでしょうし、挿し木も効くでしょう。新しい病院の建物の周りに、「ヒポクラテスの木」をはじめ、いろんな高木を植えてほしいと思います。木々や花々は、患者の心と身体を癒やします。生命力を育みます。駐車場の殺風景な光景には、高くそびえる木々が、その索漠を消してくれるでしょう。お世話になりました。感謝の気持ちを込めて、お願いの文とします。
ぼくのこの願いは、その後新病院の事務室に聞くと、結局検討されることもなく活かされていなかった。「ヒポクラテスの木」は消えてしまった。
ぼくらは「サン・パウ病院」を出てすぐに、南西方向にいくらか下り気味の一直線の街路に立った。通りの名は「ガウディ通り」という。そのときだった。街路の中央部分10メートルほどが散策路の歩行者天国になっていて、その両側に延々と巨大なプラタナスの並木が空を覆っている。そしてその向こう、おおー、ぼくは叫んだ。この大通りの向こうに、サグラダファミリア聖堂の尖塔群が空に伸びているではないか。1882年に着工し、ガウディ没後100年の2026年完成を目指して、今もなお工事が続けられている「サグラダファミリア大聖堂」。「ガウディ通り」は約1キロある。「サン・パウ病院」は人びとの祈りのサグラダファミリア大聖堂につながり、両者は常に向かい合っている。「ガウディ通り」には「ヒポクラテスの木」の並木が続き、野外カフェの椅子があり、ベンチがあり、人びとの憩い安らぎがあるのだ。緑陰に新しい病院の入院患者さんらしき人の姿も見た。患者さんたちも、サン・パウ病院から緑の街路をぶらぶら下っていく。そして圧倒的な天の塔に迎え入れられ祈る。
二つの大戦を超えて、続けられてきたこの壮大な人為に驚嘆する。
ヒポクラテスは紀元前5世紀に生まれたギリシャの医師であり、科学的医学を発展させる基礎をつくった「医学の父」と称される。「ヒポクラテスの誓い」の一節、「医師は、どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。」