前立腺切除 (3)


         育てる ・ 育つ


4月に就職してきた人なのか、若い看護師さんが先輩看護師とペアになって病室にやってきた。
点滴の注射針を射す場所を見つけるのも、射し方も、たぶん実習で教えてもらっていることだろうが、
実際に患者を目の前にして初めて行なうとなると自信がないから躊躇するのも当たり前。
先輩看護師が見守るなか、どこに針を射したらいいかしらと、
ぼくの左腕を指でおさえていた新入りの看護師は小さな声で先輩に、やってください、と言った。
先輩はうなずいて黙って交代し、針を射すのにふさわしい場所を手の甲の上部腕に見つけると、そこに針を射した。
素人目にも、その箇所を見つけて、針を射すのは難しい技のように思う。
今回は先輩に頼ったけれど、いずれ新入看護師も自分ひとりで針を射さなければならない。
失敗もするだろう。
患者からは非難されたり、拒まれたりもするだろう。
それでも経験を積まねばすぐれた看護師にはなれない。
失敗もし叱られもして、経験豊かになっていく。
すぐれた先輩の存在とともに、新入看護師を受け入れ、無言で励ます患者の寛容さが、看護師を育てていく。


その新入り看護師が、一人で病室に来たとき、シャワーを浴びてもいいか、とぼくは訊ねた。
すると彼女は、
「すみません。私は新入りで、よく分からなくて。訊いて来ます。」
と言って、スタッフルームに走っていった。
「いいそうです。案内します。」
帰ってきた看護師の後について、石鹸、シャンプーなどを持ち、隣の棟に出かける。
「あれ? ここじゃなかったのかしら。たしか、この辺りだと思ったんだけど。」
看護師は恥ずかしそうに、きょろきょろ見回している。
そこへ別の棟の看護師が通りがかった。
「ここじゃありませんよ。そちらの廊下です。」
「すみません、すみません。」
いいですよ、いいですよ、とぼくは応える。
分からないことは、分からないと率直に言う。
分からないことは、先輩から訊く、確かめる。
それでいい。
知ったかぶりが、最も危険なことなのだから。


ベテラン村田医師と、新進気鋭の皆川医師、お二人はコンビで動いておられる。
毎日のように、村田医師は病室へ来てくださった。
皆川先生と二人で来られたときもある。
謙虚な態度に頭が下がった。
患者の様子を観る、尿の状態を観る、術後の観察は重要なことだから、医師は病室を訪れる。
直接の手術は皆川医師が行なってくださったが、そのフォローやカバーを村田先生が行っておられるのだろうか、
内実は分からないけれど、患者に接する部分では、いろいろ感じるものがある。
日進月歩の医学の世界では、病気に関する研究や治療に関する研究から学び、
そして患者の身体に直接接して、医学、医療の知識や技能を駆使して、治癒に邁進する。
医師にとって患者は学びの対象であり研究の対象となる。
先輩村田先生の、フォローする態度から学び、
新進皆川先生はさらに経験を積んで豊かな医師として育っていかれることだろう。
医師から患者への働きかけの重要な一つ、患者の心を「聴く」、患者の身体に「耳を傾ける」、
そのことに心が向くようになるにつれて、医師は医師として育ち成熟していく。


退院の前日の朝、村田先生が来て、尿道のパイプを抜いてくださった。
点滴のパイプと、尿パイプがつながれていたとき、夜の寝返りも自由にできなかったが、これで自由になった。
退院の日、自由な身体で院内の廊下を散歩した。
ヒポクラテスの木の所に来て、別の位置から坪庭を見たとき、椿に鳥の巣が二つもあるのを見つけた。
古い鳥の巣だが、こんな閉ざされた空間に、先日はヒヨドリが来ていたし、
以前は鳥も巣を作ったのだ。
西の軒先に巣を作っているつがいのツバメは、土を口に含んで運んできて、
巣に入ると土を吐き出しては塗りこんでいる。
一羽が巣の中で作業している間、もう一羽は近くの屋根で待っている。
雄の作業が終わりそうになったところで、雌が巣に飛んでいくと、雄は入れ替わるように飛び立っていった。
二羽の協力で巣が完成したら、卵を産み、やがて雛が生まれる。

「Nさん、桜咲きましたねえ。」
「咲いたね。」
「がんばってくださいよ。いつか、家に行きますよ。」
後から入院してきた人が次々退院していくねえ、と奥さんは嘆いておられたが、Nさんはこれから1年間、10回も抗がん剤を身体に注入することになる。
NさんとAさん、同室の人たちに挨拶し、そして笑顔の看護師さんたちに御礼を述べて退院した。
身体が本調子になるまでは、まだまだ時間がかかる。
今日はよく見える常念岳へ向かって、洋子の運転する車で帰っていった。
後の座席に乗ってきていたランは、大喜びだ。