[日本社会] 危険な兆候


在日中国人リ・イン監督によるドキュメンタリー映画靖国」の上映を、右翼の妨害を恐れて中止する決定をした映画館をめぐって、危惧の念が表明されている報道を読んで、その危惧の念の表明にも、微妙な心理が表れているのを感じる。


政府の町村官房長官
「いろんな嫌がらせや圧力で表現の自由が左右されるのは不適切だ。」
 町村氏は「不適切だ」という言葉を使った。


自民党稲田朋美衆議院議員
「「私たちの行動が表現の自由に対する制限でないことを明らかにするためにも、上映を中止していただきたくない。」
 この映画に公的な助成金が出ていることに疑問を呈し、それがきっかけになって、映画に対する妨害活動を誘い出したことに対する稲田氏の弁明。


映画評論家・山根貞男氏の論評のなかに、このような表現がある。
「このドキュメンタリー映画は、一部週刊誌などで反日イデオロギー映画のように書かれているが、そんな映画とは違う。といっても、それはわたしの見方で、別の感想を持つ人がいるかも知れない。だからこそ、広く一般に公開されるべきなのである。」(朝日新聞4月2日)
 「といっても」以下の部分は、言わなくても分かる、当然のことなのだが、あえてそれを言おうとするところに感じるものがある。
山根氏は、「この映画はメッセージではなく、出来事や人物や資料をただ差し出す。それをどう受け取るかは、すべて観客に委ねられている。」という特徴ゆえに、あえて「わたしの見方」と言ったのだろう。それはそうなのだが・・・。


朝日新聞の「天声人語」と「社説」は、「危うい」という言葉を使った。
天声人語「右翼の抗議を怖がり、日教組の集会を拒んだホテルと同様、あるいはそれ以上に、メディアの一翼を担う映画館の萎縮は深刻だ。あらゆる表現や言論、批判が出会うべき場が、近所迷惑になるからと自ら幕を下ろしては議論さえ始らない。面倒はいやだと縮こまる。ネットで匿名の中傷を浴びせる。そんな風潮を含めて、時代の空気は少しずつ危うくなっている。」
朝日社説の見出し「『靖国』上映中止 表現の自由が危うい」
  「危うい」と「危ない」は、同じ意味合いであるが、微妙に使うときの心理的スタンスが異なるように私は感じる。


論調をおだやかにして、対立的にならないように配慮しようとする、その心理が、表現に微妙に現れているように思う。
それでも、言論テロに立ち向かわなければならないという勇気を受け止めて、危険な方向に日本が進んでいかないように、心して行動しなければならないと思う。