事件に想う

 

 

 

 過去の記録ノートを見返していたら、こんなのがあった。

 16年前、朝日新聞「声」欄にぼくが投書した原稿だった。

 

 <論説主幹の若宮啓文氏が書いておられたが、加藤紘一氏の実家への放火事件に対して、小泉首相にも安倍氏にも憤る声無く、取り締まりを検討する言葉も国民への訴えも無いという状況に対して不可解に思う。

 安倍氏はその著書において闘う政治家を標榜し、小泉首相アメリカ大統領に呼応して、テロとの戦い自衛隊派遣という形で応えてきたが、国内のこの種のテロには、しんとして動きが無い。

 私が住むに隣町で、田中長野県知事の「車座集会」が企画された。長野県知事選の前である。それに対して、

「車座集会を開くなら、子どもを一人一人殺す」

という匿名の投書が主催者側に送りつけられ、危険を感じて町は集会を中止した。

 ところが政官からも県民からも、強い抗議の動きが出てこなかった。

 このようにひっそりと問題を見逃していく状況は不気味でさえある。

自分の考えに反対するものへのテロには目をつむり、沈黙する、そういう空気が広がっているのではないか。

 「異論を理を尽くし、遠慮なく主張しあって、安心、安全」、これがなければ国は滅ぶ。>

 

 投書は掲載にはならなかったが、

 地域社会や職場でも、もっと自分の考え、異論を出しあえる文化をつくらなければと思う。家、学校でも、討議の文化を育てることが重要だ。

 知識を覚える、決まりを守る、そこだけにシフトした教育では、考える力、討議する力は育たない。