犬山市の気概を讃える            


        全国統一学力テスト不参加
         <たったひとつになっても>


全国でたった一つの自治体だけが、来年も全国統一学力テストに参加しないと決定した。
愛知県犬山市
一市だけ。
反対した犬山市だけが注目され、
99.95パーセントの自治体が実施することに賛成したことは話題になっていない。


たった一つになっても、主体性を貫いた犬山市は、参加しない理由を、犬山が取り組んできた助け合い学習の結果から判断したという。
犬山の小中学校が行ってきた教育実践への、誇りと自信から来る判断である。
我々は何を目指し、どんな教育を行うか、
地域が取り組む未来への道程の中で、
今は全国統一学力テストは必要ない。
明確である。
その結果が孤高の自治体となった。
こういう結果になったことで、犬山市のなかで、議論も起こっている。
市長は賛成派、教育委員会の決定を批判している。
来年は教育委員を賛成派に替えるから、教育委員会のなかで賛成派と反対派が逆転し、
テストは賛成、参加するというのだ。


99.95パーセントの自治体の教育委員会は、どう考えたのだろう。
文部科学省の方針には従ったほうがいい。
他がやるなら、うちもやらなければならない。
ほぼこれがホンネだろう。
学校教育の実態と子どもたちの実態をふまえてテストは必要と考えたか。
将来への展望、自治体の主体的な教育創造のうえで役立つと考えたか。
それならいいが。


犬山では、市民の中からも賛否の意見がたたかわされている。
それは自らの自治体の教育と子どもを見つめる議論になる。
99.95パーセントの自治体では、議論はどうだったろう。
お上のやることだ、しかたがないさ、
競争がないと先生も子どもも本気にならないから、しかたないさ、
だったろうか。


40数年前に行われていた、全国学力テストには反対運動が沸騰した。
その歴史は親にとっても教師にとっても遠い過去のものになってしまった。


あのころ、大阪の教育現場に20代のぼくはいた。
大阪市大阪府の教育研究会が自治体独自の統一テストを実施していたころ、
ひとりの先輩教師が、自分のクラスの成績向上に力を入れた。
情熱的な教師で、クラスの点数を上げるために、一生懸命になった。
テストが済み、評価結果が出ると、彼はその成績の席次を巻紙に書いて、教室前の廊下に貼り出した。
他のクラスの子らもそれを見る。
ぼくはそれに反対し、その表を撤去すると言ったことから、口論になった。
先輩の彼は、「父母を集めて、あんたの言ったことを報告し、抗議する」と、いきまいた。
感情的対立はそれから長く尾を引いた。


自治体独自の統一テストの成績は受験に利用され、その後その弊害から廃止されていった。


問題は、統一テストを行った結果、どのような事態が教育現場や子どもたち、そして、親の中に起こってくるかということ。
テスト結果は活用できるかどうか、活用できるだけのものなのか。
子どもたちのもっている学力を、正しく評価することができるかどうか疑問のペーパーテストであるにもかかわらず、その評価が数字となって公表されると、自治体間、学校間、教師間、親や子ども同士のあいだで、比較競争が起こってくる。
そんなことは承知の上だと、文部科学省は言うだろう。外国との学力成績比較から、日本が遅れをとっていると考えたことが根底にあるのだから。


議論が起こればいい。
もっともっと子どもの教育を親や市民が考えればいい。
教師はもっと実践につながる議論をすることだ。
子どもたちの育ちの場、教育の場は家庭と学校と地域社会だ。
それが今どんな状態にあるのか、
それを考えることから教育が組み立てられる。
それなくして、小手先のテストから数字を出して、教育の何が変わるか。