「はだしのゲン」、教師たちはどう考えたのか

 小・中学校図書館で、漫画「はだしのゲン」を自由に読めなくするよう求めた松江市教委が、委員全員が「手続きに不備があった」と判断し措置を撤回した。
 ことの発端は昨年8月、学校図書館から撤去してほしいという陳情があったことだった。それに対して市議会は不採択、市教委も撤去に応じない方針を示した。 しかし教育委員会事務局は独断で校長会を通じて、学校図書館から「はだしのゲン」を撤去するように指示した。そして本は図書館から消えた。
 「はだしのゲン」の作者・中沢啓治は、生の原爆体験を詳細に描いた。「はだしのゲン」は、日本のみならず世界でも読み継がれ、原爆の悲惨を伝えている。その作品を、過激な描写を理由に、子どもたちの前から排除せよとの措置だったのだ。
 このことが報道されると、日本の内外から批判の声が上がり、教育委員会は措置を撤回した。
 市教育委員会は二つの機関で成り立っている。一つは、市の職員による事務局(トップは教育長)、もう一つは非常勤の教育委員会(トップは教育委員長)という仕組みである。
 今回の問題によって、いくつかの実態があらわになった。
 まず直接行政指導を現場に行なう教育委員会と学校との関係。
 歴史的に見ると、教育委員会は、国の教育行政の現場指導の先端機関のように動いてきた。
 政府 → 県教委 → 市町村教委 → 学校 → 児童生徒・保護者
という上から下への政治指導の関係である。カリキュラム、検定教科書など、上から下へその決定事項は降りていく。
 それに対して、下から上へ、子どもたちの教育に直接関与し実践している末端の教育現場から行政の側へ、教育についての意見が上げられていく関係がある。ところが、この後者の関係は、まったく機能してこなかった。ほとんどが上意下達という実態である。
 教育長が「はだしのゲン」を撤去するように指示したとき、校長たちは、「はい、かしこまりました」と承り、学校に帰って教諭に指示をした。校長会の誰からも、その教委の指示に異論あり、と発言する人がいなかった。人事権をにぎっている上部機関の言うとおりに従うのは校長たちの習性である。たてつくと後が怖い。そして学校現場では、校長の指示通りである。そうしなければ、後が怖い。
 最も発言力を持つべきは、現場で子どもたちに日々接している教師のはずである。小中学校の教師たちは、「はだしのゲン」をなぜ撤去しなければならないのか、という議論をどうしてやらなかったのか。現場教師もまた「はい、かしこまりました」であったのだろう。
 今の学校の教師たちの無力感、閉塞感を感じる。上の方針だから従え、長いものには巻かれろ。
 そういう仕組みの中で子どもたちの教育が動いていくかぎり、現場からの創造的な教育は起こってこない。当たり障りのない教科書をなぞるだけの教育からどんな子どもが育つか。教師が無気力では、児童生徒も学びは乏しくなり、意欲的な仲間作りは出来なくなる。
 ぼくが今教えている生徒のなかに、中学校時代はほとんど不登校だった子がいる。学校へ行かずに近くの里山へ行って一人で遊んでいた彼は「風の声を聴くのが好き」と言った。学校の空気よりも自然の空気のなかで解放感にひたっていたのだ。中学校には10数人の不登校生がいたとのことだった。
 一人の校長を思い出す。もう47年も前の大阪である。ぼくが志願して赴任した中学校は、「最も教育が困難な学校」と呼ばれていた。同和教育を実践しつつあったその学校は校舎も施設も不十分で、荒れる子が多かった。同じ校区に住みながらその学校へは通わず、被差別部落のない他の教育環境のいい学校へ越境して通学する子が多数いた。誠実な校長は、教育委員会に単身乗り込んでいって、劣悪な学校環境や教員の配置、もろもろの無為無策にたいして、事務局に響き渡る怒りの声で弾劾したことがあった。それは教師たちに伝わり語り草となった。彼は、校長職の途中で肺がんのために死去した。部落の親たちは集会のなかで、彼の死を悼んだ。
 松江の問題で気になるのは、教師たちの自立した学びの実態と、仲間との討論・研究の実態である。教師たちは異なる意見も出し合って議論していたか。討論して出てきた結論に基づいて実践しようとしていたか。少数の異論を排除したり差別したりしないで、議論していたか。
 「はだしのゲン」をテーマに研究し議論したか。
 これは教師集団の質を計るものさしである。
 松江だけの問題ではない。日本の学校の共通した問題ではないか。憂えるのは、「もの言わぬ教師」「みんなと同調して、型どおりにしか動かない教師」が増えていくことである。
 いつのまにか実態はファシズムの浸潤である。