競争主義と成績至上主義



 「学力テスト」の結果、「成績がよくない」から、「成績を上げる」ために「ゆとり教育」をやめて「競争主義」に切り替える。大阪をはじめ全国各地でそんな風潮が生まれている。「学力を上げる」ことと、「成績を上げる」ことは別のことなのだが。テストの成績を上げることは、点数を上げること、偏差値を上げることであり、成績というと点数がイメージされる。しかし、学力と成績は全く異なる。学力の優れた子が必ずよい成績を上げるとは言えず、成績のよい子が学力が高いとは限らない。そんなことは自明のことだが、「学力テスト」の点数が他の道府県自治体間で比較され、さらに学校間でその格差が論評されると、競争主義が跋扈して、自治体では公立学校の点数を上げることに真剣になり、学校に指示を出し、学校では成績アップに邁進しなければならなくなる。昔たどった道の再現である。1960年代に行なわれた「全国中学校一斉学力調査」では、競争が過熱した。その当時、大阪市の学校では、大阪市大阪府の二つの教育研究所で作成されたテストを全校で実施していた。ぼくの同僚の先輩教師は情熱的な男で、クラス一丸になってテストで勝とうと、発破をかけ勉強させた。結果が発表されると、確かに成績はよく、彼はその成績を個人名も入れて廊下に張り出したのだった。それを見たぼくは、それは行き過ぎだと批判し、撤去を求めた。彼は譲らず、激しい口論となった。そのことがきっかけになって、彼とは決定的な対立状態となった。「全国学テ」は1964年に中止になったが、全国のいくつかの学校で成績を上げるために不正が行われたことが明らかになっている。その後、教育の大方針は「ゆとり教育」に転換された。が国際競争の結果も影響して、2007年、43年ぶりに復活。また同じような問題が起こっている。テスト成績の低い、障害のある子が、学校を休まされ、テストから除外されたという不正である。
 桜宮高校の問題は、点数をとって試合に勝つこと、強いチームをつくることに目的を置いた競争主義の結果である。当該教師も、愛校心の強い情熱的な教師であったのだろう。彼は自分のやり方に固執した。そういう方法以外知らなかった。
 これまで見てきた体育科の教師には、二つのタイプがあった。一つは、「規律」と「集団行動」に重点を置いた指導を行なう教師たちだった。統一のとれた規律正しい集団行動を行なう訓練と鍛錬で授業が終わる。すべては教師の命令と指示による行動だった。それは校則遵守を重視する生活指導の補完物のように思えた。楽しいはずの体育の授業は、生徒たちにとってはまったく楽しくない、緊張するばかりの授業だった。もう一つのタイプは、球技も陸上競技も取り入れ、生徒たちでチームをつくり、自主的に運動し、技能を高めていく授業だった。その中間のようなタイプの人もいる。
 「自由というのは今の子どもには、いちばん難しい。いつも指示で動いているから。」
と語る小学校教師の記事を読んだ。創意工夫する、創造する、臨機応変行動する、自由の中で磨かれていく能力だが、体育科の授業の中にも「表現運動」というのがあり、それを授業で行なうと、自由に即興力を発揮することのできない子が多いということだった。身体で自己を表現することにためらう。体育の授業は、生き方を切り開く人間を育てる授業でもあると思える分野があることをぼくは知った。ぼくの見てきた現場では、きれいさっぱり省略されてしまっていたのではないかと思える。武道、ダンスが必修になったが、現場はこれをどのように指導していくだろうか。