蚕の火鉢

  


         古民具の物語



いつのぞいても戸が閉まっている骨董屋だが、
それでも、その前を通るだけで、少しのんびりした気分になり、心が安らぐ。
店前の軒先には、何点もの古道具が、雨ざらしのままに置かれていて、
それら長年使い込まれてきたもの言わぬものたちは、かすかに人間に主張していることが感じられる。
木の盥(たらい)、火鉢、壷、笊(ざる)、水がめなど、
無人の店前に無用心に並べられた2,30点の古民具には、それを使用した人間の物語がひそんでおり、
古民具たちは、それぞれ波長の異なる物語を発していた。
だから、ぼくは遠道になっても、その前を通って出勤した。


昨年、その骨董屋が、安曇野まで中央道を通って運んでくれた、いかにも昔の庶民が使ったと思われる重厚なヒノキの食器棚は、
ネズミのかじった跡もあり、長い年月の汚れや垢は、拭いても拭いても雑巾を黒くしたが、
部屋にそれを置いて、物を収納すると、やがて静かに物語を語りはじめている。


それから半年、
再び我が家を離れて、昨年12月に美濃へ行った。
毎朝、骨董屋の前を通って、ものたちを眺めてから仕事に行く。
通るたびに、置かれた古民具のなかで、ひときわ自己アピールしている一つが、
素焼きの壷だった。
素人が作ったもののようで、
いったい何に使ったものなのか、分からない。
にもかかわらず、不思議に魅力を感じる。
もう一点、ぼくに無言の声をかけたのが、これも平凡な水がめだった。
釉(うわぐすり)を塗ってあったようだが、もうはげちょろけで、
一見して素焼き風、弥生式土器のような味がある。
上部にひびも入っており、使われた年月の長さが、いかにもご老体といった感じだった。
水がめには、500円と書いた紙が貼ってある。


休みの日に、近くにある骨董屋の奥さんが営む古布の店に行ってみた。
奥さんはぼくの顔を見ると、驚きの表情で、急いで隣の住居に旦那を呼びに走った。
あのとき、安曇野まで、夫婦で食器棚を運んでくれて、そして温泉旅館に泊まって帰られた、
それがうれしかったと思われ、飛び出てきた骨董屋は、待っていましたとばかり、
話に花が咲いた。
骨董屋は、行きつけの喫茶店に連れて行ってくれて、そこでまた話が止まらない。
おやじさんは、ふだん骨董や古民具を買い付けに行ったり、市があると店を出しに行ったりするが、
自分の店を開けるのは、ほんのたまで、あとは自分の家にいるのだという。


ぼくに語りかけていた、素焼きの壷のような古民具は、養蚕に使われたものだと、おやじさんは言う。
今はすっかり衰退してしまい、産業としての態をなしていないが、
美濃地方も飛騨地方も、かつては養蚕が盛んだった。
お蚕さまと、敬称で呼んだ蚕。
春と秋に蚕は卵から孵化し、春は45日ぐらい、秋は35日ぐらいで繭(まゆ)を結んだ。
はるご(春蚕)に、あきご(秋蚕)、
春にも晩秋にも、寒い日がある。
蚕に適切な室内温度は、23度から28度。
濡れた桑の葉は食べさせてはいけない。
そこで蚕用の火鉢が要った。
火鉢に炭火を入れ、竹を網状に編んだのに濡れた桑の葉を広げて、火鉢の上方に吊るしたのだという。
室内の温度を上げたり、桑の葉を乾かしたりした火鉢。


捨てられる運命にあった古民具を骨董屋は一軒分そっくり買って帰り、
きれいに洗ってから売り物を分別する。
それらは骨董屋の倉庫にまだたくさん残っている。
いくつかは捨てられ、いくつかは、命ながらえて、昔の物語を語り続ける。
お蚕さんの火鉢1000円、
一ヶ月後任務を終えて帰る時、ぼくは火鉢と水がめを、手押し車にくくりつけて引っ張り、
列車に乗せて帰ってきた。
重い荷だったが、最近はエレベーターのついている駅が多い。
最後の田舎の駅だけが、地下道の階段を下りて上るとき、重さが応えた。