杓子定規(しゃくしじょうぎ)という言葉がある。
「しゃくし」や「じょうぎ」できっちり計るように規則や基準に従い、
融通、応用がきかない、
きっちりと一つの型にはまった行動を重視するという意味で使われる。
日本の学校の伝統的卒業式では、杓子定規が幅を利かしてきた。
石部金吉(いしべきんきち)の教師がいて、采配をふるう。
お辞儀をするときの体を曲げる角度は何度ぐらいだ、
生徒席から演壇まで歩いて曲がるとき、直角に曲がる、
卒業証書の受け取り方は、両腕を伸ばして受け取って、一歩下がって深々と礼をする、
厳粛な式典には、厳粛な行動・態度を必要とする。
必要な時には、その場にふさわしい行動、態度がとれる人になる。
だから、伝統的な礼儀作法をきっちり教える必要がある。
まずは基本的な行動態度の型を身につけさせる。
一般論としては、それはそうである。
さて、問題は、そこからだ。
明治以降の日本の近代教育は国家主義に貫かれてきた。
国家が教育を行なうから、
卒業式は、卒業証書授与式であり、
国家が証書を授与して、国家が教育を授与したことを認定する。
この考え方にもとづく形式が、戦後も残り続けてきたことをとらえておかねばならないだろう。
型を指導して、そこで終わる。
形式主義は、そこがゴールになっている。
式の形、外見を重視するが、
魂のこもったものにしようとはしない。
これまでの学校生活を振り返り、
これからの未来を展望する式にしよう、
一人ひとりの心からにじみ出てくるものを大切にする卒業式にしよう。
こうして、日本の卒業式は、戦後、さまざまな改革も行われた。
創造的な式が、今も実践されている学校もある。
しかし、大勢はどうだろう。
私には苦い思い出がある。
規則を守らせることに、やかましい学校で、
学校の雰囲気がそうなっていた。
わたしもそれに合わせていかねばならない。
いつも靴のかかとを踏んで歩いている子がいた。
それをやめさせようと、厳しい叱責をした。
しかし、止めようとしない。
それはその子の感情表現だった。
教師への反抗意識が根底にあった。
教師が指導をエスカレートすればするほど事態は悪化した。
対話は断絶し、指導は失敗。
式で、その子は、それを押し通した。
服装違反を繰り返すグループがいて、卒業式でも改めることを拒否して当日に至ったことがあった。
このときは、式当日の朝に対話が成立した。
「おまえは、ここで教師の言うことを聞けば、負けたことになると思っているんやろ。」
廊下での私の問いに、彼はうなずいた。
「よし、分かった。もういい。」
それでいけ、その一言が、彼らの気持ちを変えた。
形にこだわることから、心を重視するほうへ、
その変化がなかったら、こだわる型は死んだものになってしまっただろう。
式が終わった後、彼らは花束をもってやってきてくれた。
子どもたちにとって、学校生活とはなんだったか、
それを問うことが、教師にとっての卒業式の基本であると思う。