養蚕

 安曇野では、昭和の30年ごろまで養蚕が行なわれていたらしい。今は一軒も養蚕農家はない。伊那谷の飯田のほうでは、わずかだが、まだ養蚕農家も残っているそうだ。
 子ども会育成会の役を引き継ぐため、次の役になった正さんと話していたら、正さんの子どものころは養蚕をしていたということだった。
 「蚕を飼う時期になると、人間の寝るところもなくなるほどで、毎日、蚕が桑の葉を食べる音がするんですよ」
 桑の葉を縦にして、蚕は上げた頭を下ろしながら葉を食べていく。かすかなギザギザの歯形を残して、見る見る葉っぱは、小さくなっていった。その様子はぼくも記憶している。
 子どものころに蚕を飼ったことがある。家は大阪市内の端っこで、畑もあった。住宅地のどこにも養蚕農家などなかったと思っていたのだが、ひょっとしたら養蚕をしている家があったのではなかったかというあいまいな記憶がうっすらとよみがえってくる。家の近くに二本の川が流れていて、その向こうは畑になっていた。
 春のある日、
 「つくしがあったよー」
と叫んで川のほとりを走って帰ってくる近所の男の子がいた。その大発見の喜ぶ声を聞いて、つくしという珍しいものがあるのだと知った。
その川向こうの、畑の端にあった家、あれは蚕を飼っていた家ではなかったか、そんな気がする。よくおぼえていないが、小学一年生になって蚕を飼うことを知ったのは、たぶんその家で蚕も桑の葉も手に入れることができたからではなかったか。推測すればそれしかない。
 入学した小学校の校門前に文房具店があり、麦わらをそこで買った。その記憶は残っている。菓子箱を母からもらい、麦わらを何本かぽきぽきと波型に折って箱に入れ、そこへ桑の葉を入れて蚕を入れた。もらってきた桑の葉は乾いていなければいけない。雨の日にもらってきた桑の葉はタオルで拭いた。
 もりもり葉を食べる白い蚕は、何日かして途中で頭を上げたまま眠った。そして脱皮し、またもりもり食べて大きくなっていった。蚕は何回か眠った。まゆをつくる前になると、蚕の体は透きとおるような感じになった。約25日間でまゆをつくるということだが、その日数の記憶はない。
 大きくなった蚕は、頭をふりながら、昼も夜もまゆを作った。折り曲げた麦わらにまゆは糸でくっつけられていた。
小学1年生の終わりの3月、大阪市内は大空襲を受けた。空がまっ赤に焼けている光景を覚えている。家族はそれをきっかけに郡部に住む祖父母の家に引っ越した。蚕はそれかぎりになった。

 新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵は、穂高で養蚕を営んでいたときは、養蚕技術を大きく改良した。その功績は大きかった。
 安曇野には昔養蚕農家だった家屋はあちこちに残っているが、生きた養蚕文化は残っていない。正さんの隣にあった生糸をとった工場も4年前に解体された。過去の生活文化は移り変わり、やがて消えていく。
 せめて小学校にこの文化を継承する授業をつくってほしいと思う。養蚕技術をもっている人たちを講師にして。
 今はまだそれが可能だ。このような授業こそ、地域を知り文化を学び、社会を考える力を育てる。