まど・みちおの詩(2)


      さようなら


子どもの時の遠い記憶、これはいつのことだろう。
静かな夜、ぼくは、布団に一人寝ていた。
着物姿の母が、横で縫物をしている。
部屋には、ぼくと母しかいない。
父も兄も妹もいない。
なぜだろう。
父は仕事、兄は祖父母の家に行っていたのかもしれない。
そういう時期があった。
アメリカ軍の空襲が激しくなり、兄は一足先に大阪郊外の祖父の家に引き取られていた。
では、妹は?
まだ生まれていなかったのか。
そうだとしたら、その時のぼくの年齢は三歳半までということになる。
はたしてそれは、三歳ごろの記憶なのだろうか。
一人寝ているぼくは、布団の中で、たまらなく寂しかった。
そのまま寝てしまったら、その日が終わってしまう。
その日が終わってしまうと思うと、寂しさが押し寄せてきて、心がふるえた。


三歳の子に、そういう感情が湧いてくるものだろうか。
よくわからない。
でも、寝てしまうとその日と別れ、すべてが終わってしまうと思っていた。
そのときの寂しさを覚えている。
幼い子供にそんな心があるのかどうか。
いや、ひょっとしたら、幼いからこそ、
そのような鋭敏な感情があったのではないか。
そんな感じがする。
子どもの頃の心の世界は、大人の思う以上に、深く、繊細で、豊かなのかもしれない。


小学生の時にも、よく似た記憶がある。
学校が終わって帰ってきたら、
毎日毎日近所の仲間と遊びほうけた。
これほど楽しいときはないと思えるほど、無我夢中になって遊んだ。
そうして一日が終わり、友は家に帰っていく。
あした、また遊ぼうや、
そのときも、一日が終わって別れていく寂しさがおそってきて、胸がきゅっとなった。
子どもの感受性、それは計り知れないものがあるのかもしれない。


まど・みちおさんが書いた「さようなら」は、
まどさんの中にある、子どもの心からできた詩だろうか。



      さようなら


 子供よ、あの赤い夕焼けは、一日が「さようなら」って言ってるのだ。
 子供よ、今落ちた木の葉の、あのしずかな音も、やはりあの木の葉の「さようなら」だ。
 子供よ、お前の持っている鉛筆でさえ短くなるたびに、「さようなら」「さようなら」「さようなら」って書いている。
 ああ、子供よ、耳をすましてみると、なにもかにもみんながみんな、「さようなら」「さようなら」って言ってるではないか。



これを書いてしばらくして、矛盾に気がついた。
兄が祖父母の家にあずけられた時には、妹は生まれていた。
だから、あの記憶の年には、妹がいたはず。
それが、あの日の記憶の映像にはいないということは、
別の部屋に寝かされていたのかもしれない。
さすれば、ぼくは5歳か6歳か。
3歳ということはありえない。