親と子、父の人生


 昨夜から今日まで降った台風の雨で、バケツは満杯になっている。400ミリ以上降ったようだ。京都の桂川が氾濫し、奈良から大阪へ流れる故郷の川、大和川まで氾濫の危険ありという報道に驚く。

 あのとき、ぼくは小学生の高学年だった。台風が襲来した。大阪、南河内の高台にあった我が家は、まともに暴風雨にさらされた。家が揺れ動き、天井が持ち上がるように動く。祖母を含めた家族8人は家の中で、恐怖におののいていた。テレビはまだなく、ラジオだけがニュース源だった。
5人きょうだいの、次男坊だったぼくと兄は、神仏に救いを求める気持ちになり、仏壇の前に座った。
 「ナンミョウホウレンゲーキョー、ナンミョウホウレンゲーキョー」
我が家は日蓮宗、知っているお経はそれだけ、もう必死だった。一心に台風の通過と家の無事を祈った。経をあげる兄とぼくの後ろに、妹と弟も座っていた。子どもだけで仏壇に祈るのは我が人生でこのとき1回きり。
 ごうごうと風はうなり、激しい風雨の打ちつける音に混じって、パリーン、パリーンという音が外から聞こえだした。雨戸のすき間からのぞいてみると、屋根瓦が空に舞い、落下して割れている音だった。まるで木の葉のようにくるくる回りながら、屋根瓦が落ちている。
 「屋根が飛ぶー」
 子どもたちは、恐ろしさに悲鳴を上げた。それを聞いた父は、
 「なに? 屋根が飛ぶ?」
 父の表情が変わった。父は、いつもにない行動力で暴風雨のなかへ飛び出していった。外では瓦が舞っている。頭に瓦が落下すれば大怪我をする。父は風雨に飛ばされそうになりながら屋根を見あげている。父は屋根が飛ぶことはないと思ったようだ。
 濡れた父が家に戻ってきた。飛ぶかもしれないというのは、子どもの恐怖だった。
 子どもらはまた仏壇の前に座って、お題目をとなえた。風が収まるまで、どれくらいの時間だったろうか。長い時間に感じられた。
子どもでも必死になって念じ祈ることがある、この体験は強烈だった。正月に遊ぶ「いろはかるた」の、「苦しい時の神だのみ」というのを思い出した。必死になって祈ったのは、ほんとうに「苦しい時の神だのみ」だったなと子どもなりに思った。父母も祖母も、大人たちは、だれも仏壇の前には来なかった。大人たちは現実の嵐を見つめていた。

 台風が過ぎ去り、風も収まって、外に出た。飛ばされて割れた屋根瓦が散乱していた。生活の苦しい我が家にとって負担のかかることだったが、父はすぐに新しい瓦を店から取り寄せ、屋根を修復した。
 世間と交わらずいつも無口で内にこもり、子どもにもあまりかかわらない父親が、嵐の中へ出て行った。その姿に父の力を見た思いがした。
ぼくは成長するにつれて、父の性格に反発した。大学進学するころは対話はまったく途絶えていた。父の人生が挫折の人生であったことに気付くのは、父が亡くなりぼくが50代になってからだった。
 父の人生は「閉ざされた自己実現の人生」であった。旧制中学のときに他人に預けられて暮らし、心をわずらい、持てる能力は引き出されず進学の道を断たれた。仕事は郵便局そして電電公社に勤めた。が、プライドの高かった父は、世俗になじめずあまりに世渡り下手であったがために昇進することもできなかった。父が50何歳かに、精神的に参って手が震え、文字が書けなくなった。文字が書けなかったら仕事にさしさわる。文字の練習で震えないで書けるようになること、それが闘病になっていた。
 自分に閉じこもる内向的な父だったが、父が常に望んでいたのは、子どもの幸せだった。放任の子育てに徹し、自分の道は自分で歩めと、その自由を守り通した。子どものことでは、いっさいの差別を認めず許さなかった。

 「弱い父」だと、批判し反発した息子、しかし家族のためには、嵐の中に出て行く父性の持ち主。正之さんが言うように、我が父母も平凡な人生だったが、成し遂げた一大事業は、5人の子どもを育て上げたことであった。

 あのときの台風の被害は、記録を見ると、
死者  398名
行方不明者  141名
負傷者   26,062名
住家全壊  19,131棟
住家半壊  101,792棟
床上浸水   93,116棟
床下浸水   308,960棟
とあった。