消えない悔恨の情


 虹



毎月第3月曜日に特集している新聞(朝日)の「語りつぐ戦争」。
その11月16日の声欄には、9編の投書が掲載されていた。
声欄は、500字以内というきまりになっている。
500字というわずかな字数に、戦場体験や戦時中の暮らしを書き表すことはとてもできない。
どれだけの悲惨と苦悩が省略され、削除されたことだろう。
足りない言葉の表現の奥に潜んでいるもの、それを感じ取りながら読む。
64年以上も前のことであっても、
記憶は消えることなく深く刻みこまれ、
思い起こすたびに、悔恨の情が湧いてくる、
多くの文章がそうであった。
悔恨の情、心を切り刻む記憶、人はそれを64年以上も抱えて生きている。
悔恨とはそういうものなのだ。
多くの人びとが、何らかの悔恨の情を心に抱き、
時折それがよみがえって、心を突き刺す。


88歳の男性の投書。その時、陸軍の獣医だった。
1944年6月、フィリピンのダバオでは多くの兵士が餓死した。
デング熱で倒れる兵も大勢いた。
死体にはウジがわき、白骨になっていった。
倒れていく仲間の兵士の、せめて小指だけでも持ち帰り遺族に渡したいと、
彼は思った。


 「遺体の小指を切り落とし、それを丁寧に葉で包み、 胸ポケットに入れた。
ひとつひとつ、いつしか増えていったが、そのうちポケットから腐臭を放つようになり耐えられなくなった。」


包む物がないから木の葉で包んだのだろうが、木の葉には防腐の効果もある。
日にちがたてば干からびて、日本に持ち帰れるかもしれないと、獣医の彼は考えたのか。
その心の優しさ。
しかし、南国のフィリピン、小指は腐っていった。


 「自分も極限状態だった。
白骨化して軽くなった小指さえも重く感じるほど、体力と精神力は急速に衰えていった。
 結局、小指はダバオの密林の中で、1本1本埋葬することにした。
 『一緒に日本に帰ろうと思って切ったのに、悪かったなあ』。
名前を呼びかけ手を合わせた。無念の思いで胸がいっぱいになった。」


周りの情景は何一つ書かれていない。だが、想像力はその場面を補う。
筆者は今年の9月に、息子とダバオを再訪した。


「小指を埋葬した場所は険しくて行けなかったが、
私は彼らの死を背負って生きている。
線香を供え、友に別れを告げてきた。」


記憶は消えはしない。それを背負って生きている。


次に74歳の女性の投書。
彼女が国民学校3年生のときのことだった。
1944年、兵隊の列が近づいてきた。
とつぜん、列の中から一人の兵士がそっと外に飛び出し、
服のポケットから1通の封書を取り出した。
「この手紙、ポストに入れてくれない?」
そう言って小学3年生の彼女に差し出した。


 「当時、学校ではそうした行為はなぜか固く禁じられていた。
私は、『学校で、いけないと言われていますので‥‥』と言い、受け取らなかった。
 兵隊さんは寂しそうに、その封筒をポケットにしまい列に戻った。
 家に帰って祖母にそのことを話すと、
『気の毒に。おばあちゃんが入れてあげたのに』
と言われた。
 私自身も、なぜ受け取ってあげなかったのかと、子ども心ながら自分を責める日が続いた。
 やがて終戦、いつしか忘れがちになっていたが、毎年、終戦記念日を迎えるごとに、
また戦争関連の記事や番組を見るたびに、いまだに心が痛む。
あの時の兵隊さん、ごめんなさい。」


その時の兵士は、別れの手紙を送りたかったのだろう。
禁止されていたことだからと、それを聞き届けなかった自分の薄情さを、
たぶん年とともに、責める気持ちが強くなっていったと思う。
自分の犯した過ちを悔いる気持ちは、自分を打つ。
その苦悩から解き放たれるには、それを語ること、吐露することだった。


声欄のなかに、出征していく兄を駅のプラットホームで見送った妹の手記もあった。
彼女は今82歳。
走り出した列車の窓を開けて、身を乗り出して兄は何か叫んだ。
何を叫んだのか分からない。
自分は兄の言葉を聞きとどけることができなかった。
列車は走り去った。
その後、兄の戦死公報がとどいた。


「誰にも語らず終わらせてしまう気になれず、今のうちにと思い、したためた。」
と文章の最後にある。
自分の心に秘めておかずに、
心を開くことで、悔恨の縛りから解放されていくことだろう。