朝顔の話


         あの日の朝

 

浅草の朝顔市からヤンさんが、四色咲きの鉢植え朝顔を宅配便で送ってきてくれた。
「日本人なら朝顔という花はどこにも売っているかもしれませんが、
7月7日の入谷市場で売っている朝顔こそ大事な意味をもっていますから、
もらう人はきっと喜ぶでしょうと聞きました。
心ばかりでございますが、お世話になった日々の感謝の気持ちを込めて贈らせていただきました。」
ヤンさんのメールがうれしい。
ヤンさんは武漢大学での教え子で、日本の大学に留学した後、今は日本企業で働いている。
今年の冬、我が家に同期生と共に遊びに来た。
いただいた朝顔は、大きく育つように鉢を大きいのに変え、支柱も高くして、毎日水を注いでいる。
花に添えられた手紙に、四色の花が咲くと書いてあったから楽しみにしていたら、
その四色がつぎつぎ咲いている。


今日は、ヒロシマ原爆の日
広島平和祈念式典のTV中継を観、午前8時15分に夫婦で黙祷をささげた。
あの日と今との間には、長い年月の隔たりが生まれたが、
黙祷をしている1分間に、あの日は昨日のことのように感じられ、
原爆体験記の地獄図が浮かんでは消えていった。
今日の新聞に、終戦後、中国の収容所から朝顔の種を贈られて復員してきた人のことが書かれていた。
日本軍の兵士だった副島さんは、敗戦後ソ連に抑留されるが、
1950年に中国側に引き渡され、撫順の戦犯管理所に収容された。
56年、釈放されて帰国するとき、
「もう二度と武器を持ってこの大陸に来ないでください」
「日本に帰ったら、きれいな花を咲かせてください」
と言われて、朝顔の種をもらった。
副島さんは、それからその種を播き、
毎年花を咲かせてきた。
今年も咲いた花の葉は、ハート型をしている。
その記事を書いた高橋郁男氏は7月上旬に撫順の戦犯管理所を訪ねた。
保存されているその施設の庭の垣根には、
たくさんの朝顔が咲いていた。
副島さんは、7月末にこの世を去った、91歳だった。
「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の人たちは、
副島さんの家に咲いている朝顔の種を持って撫順を訪れ、
管理所の庭に播いたという。


井伏鱒二の作品に、原爆小説「黒い雨」がある。
その一部が、以前中学国語教科書に掲載されていたが、
そのなかに、短い「ザクロの話」が入っていた。
被爆した女の人の話。
彼女の夫は戦死しており、息子は小学二年生だった。
その子はたまたま疎開から家に帰ってきていて、その朝、再び疎開先に戻る予定になっていた。
家には、隣家から塀越しに、ザクロが枝を伸ばしてきていて、
実が5つか6つほどなっている。
子どもは、父親が使っていた脚立を出して、それに上り、
ザクロの実の一つ一つに口を近づけ、ひそひそ声で、
「今度、わしが戻ってくるまで落ちるな」
と言い聞かせた。
去年、ザクロは青いうちにみんな落ちてしまったから、
今年こそ、ザクロは無事に育つようにと、言って聞かせたのだった。
その瞬間、火の玉がひらめいて、轟音がとどろき、
爆風が襲った。
塀が倒れ、子どもは即死した。


20万人の原爆死者一人一人に、物語がある。
あの朝、広島のたくさんの家の庭に、朝顔も咲いていただろう。


今も世界のいたるところで戦争の犠牲になる市民が絶えない。
広がれ、撫順の朝顔