二つの話


      穂高岳・単独行


年の暮れ、
中央線を普通列車木曽路を帰ってきて、塩尻を過ぎた頃、
隣の席の老婦人が、じっと窓外の一点を見つめている。
遠く彼方に、一塊の連山が、頂上に夕日に染まった雲をまとって、黒々とそびえている。
「あの山は」とぼくは、話しかけた。
穂高です。」
婦人は答えた。
穂高はもっと右の方でしょう。あれは、乗鞍ですよ。」
ぼくは確信的な言い方をした。
婦人は、言い返さなかったが、賛同もしなかった。表情は、あれは穂高岳ですと、言っている。
会話はそれで終わった。
松本から大糸線に乗り換えてから、そのときのぼくの発言が妙に気になった。
ひょっとすると、あの婦人の言ったとおり穂高かもしれない、という思いが湧いてきた。


穂高岳の東に走る常念山脈が邪魔をして、安曇野からは穂高は見えない。
一度島島に向う松本電鉄新村駅の近くで、
夕日をバックにした乗鞍岳を見たことがあった。
それが一つの先入観になって、あれは乗鞍という決めつけをしてしまったのだった。
山の形はどうだったか。


老婦人と交わした会話が気になりだしてから数日、
塩尻近くを通るたびに屹立する鋭い山容を観察して、
やはり穂高だと確信するにいたった。
穂高連峰は、塩尻駅辺りから見え、
松本駅が近づくと、穂高は手前の山に隠れて見えなくなり、乗鞍が左の山間に見え出す。
なぜ穂高の山群が塩尻辺りからくっきり見えるのか、
常念岳、蝶が岳、大滝山と続いてきた山脈は、次第に高度を下げて梓川の谷に消え、
塩尻穂高を結ぶ線上は梓の谷と、低山になっているのだろう。
やはりあれは穂高であることに間違いはあるまい。
ぼくが間違っていた。
断定的な否定をしたことが恥ずかしくなった。


       ▽  ▽  ▽


正月、泰さんから賀状が来た、
読んで驚いた。
「昨年は病に苦しんだ一年でした。
それでも十二月二十二日から二十五日まで、
雪の中央アルプスの越百山を越えました。
三十キロ近いザックを背負って、
木曽谷の須原から伊那谷の中小川まで、
南越百山から自分でルートを探しての壮絶な山行でした。
石楠花の上を這って、凍てついた滝ではザックを転ばしての下山でした。
それだけに充実感もいっぱいでした。」
泰さんは、五十を過ぎてもなお果敢に登攀をつづけて、
大峰、大台山系の山や沢を一人でよく登っていた。
今度は木曽山脈に行ったのか。
一般ルートではない、人の入らない中央アルプスの南部、
冬の山はいったん天候を悪化させれば、どうなるか。
よくまあ、木曽谷から伊那谷へ無事越えられたものだ。


単独行で山に登る彼の姿を想像していて、加藤文太郎を思い出した。
加藤文太郎は、その著作「単独行」(朋文堂)で知られている。
1930年(昭和5年)の暮れから1931年の年頭にかけ、十日間、
単独で北アルプス縦走をやりとげた超人的な登山は、当時の人々を驚かせた。
近代日本のアルピニズムを確立した藤木九三は、文太郎のことをこう書いている。


「加藤君は、いつも正面から正々堂々と、『山』にぶつかっていった。
その勇気、沈着、用意周到な挑戦ぶりは、まったく男らしさという形容に尽きていた。
加藤君こそ、わが国の登山史を通じ、
身をもって『単独行』の実践に偉大な業績をのこした第一人者であった。
もちろん加藤君にしても、いつも山に勝ってばかりいなかった。
否、むしろしばしば山に組み伏せられた。
しかし、彼の勇気は、こんな時にでも決してひるまなかった。
そしてより以上な熱と、克己の勇を鼓して戦いに挑んだ。」


生まれながらの単独行者と言われた文太郎は、ヒマラヤをめざして準備に入る。
しかし、1936年、彼はめずらしく単独ではなくペアを組んで、
乗鞍から槍が岳をめざした厳冬期1月の登攀中、
北鎌尾根で帰らずの人となった。
日本は、軍靴の音が高くなっていく時代だった。