金沢嘉市の生き方

 
    教育の目的の喪失


金沢嘉市が小学校教師になったのは1928年、
学校は全体主義の国家に従属していた。
金沢は童話を子どもたちに語る教育活動に専心した。
そのなかに「闘うドイツ少年」という、敵愾心をあおる作品もあった。
1931年、日本はアジア太平洋戦争に突入、
金沢の教え子も戦場へ出て行った。


1945年、敗戦。
兵士となった金沢の教え子40余名のうち12名が亡くなっていた。
金沢は、
自分は戦争の加担者であったと反省し、
亡くなった教え子ひとりひとりの墓参りをし、
自分の犯した過ちをわびた。


なぜ日本は戦争への道を歩んだのか、
歴史を問い、
教師たちは真実からさえぎられていたことを痛感する。
自分は真実を見抜く力が乏しかった、
真実を貫くためには勇気が必要だ、
深い反省の上に立って、金沢は述懐する。


「もうどんなことがあっても、
この子どもたちを戦場に送るようなことをしてはならない。
また戦死した彼らもきっとそう願っているにちがいない。
これからはまず、生を大事にする教育、
人間を大事にする教育を第一に考えなくてはならない。」


1947年、日本国憲法が施行された。
金沢は記す。
「この憲法だったらやっていける。
この憲法の平和を志向する精神こそ
かねがね私の求めていたことである。
私は幾度もこの草案を読みかえしてみた。
これならやっていける。
この憲法精神をもとにした教育こそ私の望んでいた教育である。
わが半生はこの憲法精神によって生きていかなくてはならないと改めて決意した。」
憲法公布から五ヵ月後、教育基本法が成立した。
憲法の理想を教育で実現しようとした。


金沢は、歴史教育を大切にした。
歴史教育は、考える子どもを育てるためにある、
真実を見抜く知恵、真実を貫く勇気、
それを育てるのが教育。
考える子どもを育てない教育は教育ではないと考えた。


戦後60年、
日本の歴史教育はどうなっているか。
歴史を教えても、WHATとWHENだけ、
WHYとHOWがない。
おまけに大学受験のために、必須の世界史を教えないなどの、
高校カリキュラムの問題、
これは、
教育の目的の放棄だ。
あげくのはてに人類の理想とは無縁のところで、
ごまかしの収拾がなされようとしている。