「集団づくり」とは
学校自治会、それらは今、どうなっている?
学校における問題を解決し、
生活をよくし、
学校文化を創りだし、
みんなが成長していくための、
児童生徒、学生自身による自主活動。
小学校の児童会、中学校高校の生徒会、大学の学生自治会、
個々のクラスの学級会、班長会議、
それらは、今どうなっている?
1945年から後、
日本の学校が軍国主義教育のよろいを脱ぎ捨てて、
真理と平和を希求する人間の育成を目的に動き出した教育は、
常にその時代の国と社会の状況に翻弄されてきた。
教育創造に命をかけ、苦難に生きた多くの教師たちがいた。
子どもたちの自主性、自発性を引き出し、
自治の力を育てようとした教師たちがいた。
児童生徒の自治活動を重んじる教育活動は、
教師の指導援助なしには機能しない。
理念と情熱を持った、指導力のある教師がいてこそ、
学校の中でこれらの組織は生き生きと活動する。
だが、子どもの持っている力を引き出し、
学習と生活を創造する教育にまい進できた教師の数は多くはなかった。
児童会とか生徒会とか言っても、
多くの場合、これらの活動は形ばかり、
役員や委員に選ばれた子どもも肩書きだけ、
学校の補助的活動または便利的活動に限られていることが多かった。
起こってくる子どもの問題、
それは社会の状況に応じて、現れ方も変わってくる。
隣近所に、遊びと学びで育ちあう友だちがいた時代は遠く去り、
子どもたちがもまれた子どもたちだけの世界は消え、
今は家の中のバリア、
テレビ、インターネット、ゲーム、仮想の世界。
揶揄、傲慢、差別、罵倒、嘲笑、格闘、暴力。
一方で受験勉強、成績主義。
子どもの抵抗力はひ弱く、
敢然と主張できる力はなく、
路線から隔たり、はじけだされる子どもは浮遊する。
孤絶する子どももいる。
「集団づくり」という教育実践があった。
それは今どうなっているか。
生徒集団づくり、学級集団づくり、
この「集団」という言葉の認識はたぶんまちまち。
「集団をつくる」ということが分からない教師も多いだろう。
クラスや学年、学校のなかに生起する問題を、
子どもたちで解決していく力を養う教育実践。
「右へならえ」ではない。
「長いものには巻かれろ」ではない。
「みんなで渡れば怖くない」ではない。
「統制集団」ではない。
「烏合の衆」ではない。
一人一人の違いを認めながら、一人一人が生かされる集団、
個性を発揮し、力を合わせ、人間として成長していく集団、
ボスの台頭は許さない。
いじめる行為は存在しない。
討議すること、書くこと発表すること、
班活動を行なうこと、核をつくること、
それらを実践の方法にした。
子どもに起こっている「いじめ」問題の在り処は学校だから、
責任を学校に問うことはあるにしても、
そういう学校にしたのも、そういう教育にしたのも、
社会であり国であるというところから考えていかない限り、
根本的解決はありえず、新たな問題がいくらでも起こってくるだろう。
そして子どもたちは、
過去に学び、
この国この社会を確かに見つめ、
未来を見通し、
みんなで力を合わせてつくっていく、
それが教育の中心になっていかねばならない。
今、教育の空洞を、なくすために、
教師が子どもたちに取り戻さなければならないこと、
それは、一人一人が生かされる子ども集団。