辺見庸の本


       時代の変化

     
松本市の中央図書館へ行ってきた。
図書館には顔があり、考えがある。
なかに入ると、そこがどんな図書館であるか感じるものがある。
入った正面に、平和教育コーナーがあり、
戦時中の軍事に関係する松本の施設の写真、文献、遺品、遺跡の模型が展示されている。
松本の戦争体験、そしていま市民はどのような意識をもっているかが、少し分かるような気がした。
社会科学の書架へ行った。社会科学の書籍を見ると、図書館の実態が分かる。


二月ほど前、岐阜羽島市の図書館の書架を見たときは驚いた。
いったいこれらの本の選定は、だれがどういう考えでやったのだろうという疑問が湧いた。
たぶん館員は選定をするとき、読むことをしなかったのではないか。
ここ数年、大都会の書店をにぎわしてきた、週刊誌的見出しの、
おどろおどろしい「評論」の類、
ナショナリズムを喚起しようとする扇動的な攻撃的言論、
中国、韓国、朝鮮、アジアについての、自己を省みることのできない思考。


松本の図書館では、図書館の意志が感じられた。
ぼくは探していた辺見庸の最近の本を見つけ、二冊借りた。
「歴史というのは、それを深く意識する者の眼前にしか生々しく立ち現れないものだ、と史家はいう。
何気ない日常の風景にいち早く変調を読みとること、それが歴史を見る眼だともいわれる。」
が、時代の趨勢が論じられるとき、時代はつとに曲がり角を曲がっており、
論者は決まって趨勢を正当化しようとする、と辺見は言う。


二冊の本は、「自分自身への審問」と「いまここにあることの恥」。
2004年、辺見庸脳出血で倒れ、再起不能といわれたが、
1年4ヵ月後、奇跡的に回復してリハビリの途中でこの書を書いた。
その間に、癌が発見された。


倒れて、記憶が消失した。
記憶が戻りだしたときに浮かんできたのは、中村稔の詩の一節。
「物言うな、
かさねてきた徒労のかずをかぞえるな。」
辺見庸はこれまで激しい思念を調べの高い文章で表現してきた。
随分多く語り、書いてきた。
だが、既成事実は積み重ねられ、趨勢がつくられていく。
自分のやってきたことはすべて徒労だったか。
この時代、この国を見つめて、彼は何度も自問する。
自問しながら、辺見は今も書き続ける。
ものを言わねばならない。


「万物商品化が盛んになされている時代には、
人間がその意思の力で社会を変える運動が沈滞し、
資本が人間の意思を代行してしまうといわれる。
いまそういう時代に見える。」