生きているということ 私たちの未来


 「『生まれる』の動詞は、いまあまりにも痛々しく、ひょっとしたら『死ぬ』の自動詞よりも残酷でさえあるかもしれない。なぜなのか。徴(しるし)をわたしは感じている。Aが死んだ。死因は熱中症。行年七十六。さいごのことばは『あつい、あつい』であった。暑いではない、熱いである。Aの腸は三十九度もの熱を帯びていた。遺体の直腸で検温したのだ。直腸三十九度の闇は、未来のしるしであった。『熱い』は予言であり遺言であった。‥‥われわれがこれまでに経験したことのない熱と寒波、地震と洪水、豪雨と強風、まだ見たこともない諍(いさか)い、いまだ聞いたこともない、ひとの堕落と荒廃を予感している。」
 辺見庸の予感である。
 わたしたちは、どんな未来をもっているのだろうか。もっとすさまじい熱さの夏がくるかもしれない。南海トラフが動く日が来る。大津波がやってくる。さらなる原発事故が起こる。戦争が起こる。大災害だけではない。はかりしれない孤独の闇がやってくる。
 生まれるということは、測り知れない未来に対する不安と希望と喜びと哀しみを含み持つ。
 農民作家の吉野せいは、福島県に生まれ、開拓農民の吉野義也(詩人・三野混沌)と結婚し、阿武隈山麓でひたすら開墾に従事する。が、自給を目標に渾身の血汗をしぼれども、農村不況の大波によって生活は苦しく、命をつないだのが不思議に思えるほどだった。夫亡きあと、70歳からペンを取り、作家活動に入った吉野せいの文章は、声出して朗読したい。彼女の息づかいが朗読する自分に乗り移ってくるような文体である。
 「私の一九七五年」という短い文章がある。1975年、吉野せいは76歳であった。
 「歩きとおしたと思い込んでいる住み古した村の道でも、どこかにまだ自分の足跡のしるさない未知の細道にふと出くわすものだ。私は霜じめりした山のはざまの細道が好き。ナラや山もみじや松葉や萩の落葉が重なり合って吹き寄せられていたり、下積みは黒っぽく腐りかけていたり、その上にどこから降り落ちてきたか、まだ色あせぬ山どうだんのこまかい紅のちぎれ葉が、まぶしく散らした紅しょうがのように、ぱっと眼を射られたときなど、なんとはなく生きていると思う。生きているとは、こんなひそやかなことなのだと思う。そんなときに限って見上げる空が、不気味なほどさえているのも不思議なことだ。胸の張るうれしいことだ。
 むかし私が手作りの梨を背負って売り歩いた炭住地はすぐ眼の前、だがその上り坂は今日はもうない。形はあるが道はない。何百棟のひしめいた長屋も、一気におしならされた茫漠たる方形の一大造成地帯と変わり、まるで他国で見た岩石層の異形なわびしい丘陵に向かって立たされたようだ。‥‥
 今年の過ぎた三百余日‥‥私はただ途方に暮れて薄笑いに心の乱れをごまかすしか外にない。過去生きてきた二万余日のくらしの中からは、およそ思いもかけぬ、一点の赤い焚き火のまろみを夜の林間に垣間見た思い、とそれだけで私の全身の吐息は、どんなに大きくゆらぎ、荒らぎ、しわんだ眼が久しぶりに輝いて、かれていた涙にうるおうた。しかしそれはただ一瞬。浦島太郎が一匹の亀に逢うて味おうた、三百年の歓喜の夢の成れの果てのすさまじさに私はおびえたくない。
 自分が無心に投じた一塊の小石の波紋の消えるのをただ待っている現在なのだ。私は老いている。歩き忘れた細道の落葉の踏み心地に酔って、この無心を乱してほしくない。このひっそりした有頂天をゆるしてほしい。」