日本型ファシズムがじわじわ進行しているか


 黒豆をお椀にいっぱい、ダンボール箱にざーっと入れる。箱を傾けると、黒豆はざざーと低いほうへころがる。明日は国政選挙だ。黒豆はいっせいにどっちへ転がるだろうか。多党乱立の状態での選挙では票はばらける。だから、小選挙区という仕組みでは、得票数が少なくてもいちばん多数をとれば当選となり、軒並み同じ方向に豆は動く可能性が高い。
 昨年3月11日、辺見庸の育った海辺の街は跡形もなくなった。辺見庸のふるさとは宮城県石巻である。地震と大津波によって彼の友人、知己の多くが死亡し行方不明になった。彼は失われたふるさとにたたずみ、茫然自失する。元ジャーナリストだった彼は世界を歩き、評論を書き、作家として芥川賞も受けた。著作「もの食う人びと」などを読んだとき、ぼくは衝撃を受けた。彼は震災後、詩集「眼の海」を出版した。地震原発事故、経済と政治の混迷、次から次へと社会が揺らぐ日本、彼の思索は現代をどうとらえているのだろうか。今年4月出版された「死と滅亡のパンセ」(毎日新聞社)を読んだ。そのなかの章に「幻燈のファシズム ――震災後のなにげない異様」がある。「大震災後、感覚に失調をきたしているのは、わたしだけではあるまい。破壊と喪失のとめどない悲しみ、不安。悼みと虚脱、迫り来る次の大震災、あてどない未来‥‥。古老によれば、いまの社会的心状は戦時につうじるものがあるという。生身の個人はのどもとまで出かかった異論を呑み込んでしまう」と書く。そしてこう続ける。

 「教員に『君が代』の起立斉唱を義務づける条例案大阪府で提出されたのはそんなときだった。複数違反すれば懲戒免職とするのだそうだ。おどろいたのは、その恫喝的で戦時統制的な中身だけではない。起立斉唱を命じた校長による職務命令は『思想・良心の自由』を保障した憲法十九条に違反しないという判断が、最高裁の上告審判決で示された。歌えと命じられているのにあの歌を歌わない者、立てと命じられているのに起立しない個人は、社会から排除してもよろしいと言わんばかりだ。大津波の映像を見たときの、信じがたく、よるべない思いがぶりかえした。大震災と原発事故でかつてない心的外傷を負ったこの国は、だれもそうはっきりとは自覚しないにせよ、今風のファシズムのただなかにいるのではないか。
 世論はしかし、いたって静かである。日本人の強さ、がんばり、きずな、おもいやり、団結がこれでもかこれでもかと報じられる。人の命をのんだ海で若者たちがサーフィンに興じ、競艇も競馬も客足を取り戻しつつある。
 日本型ファシズムの特徴は、人があえて争わない諧調にあり、表面はとても異形には見えないところにある。
 かつて君が代を歌わなかった先生たち、起立しなかった人びとが、いまはすっくと立ち、明らかな声にして歌うのだそうだ。そのような人びとの内面はあまりにもつらく、たわんではいないか。そうさせているものはなにか。あの歌を歌わないですむ会社や組織に同質の異様はないのか。歌いたくない者に直立不動で歌わせる社会はまっとうだろうか。
 石川淳ファシズムの季節の光と影のゆがみについて書いている。
 『ひとびとの影はそのあるべき位置からずれて動くのであろうか。この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう。』
 わたしたちひとりびとりの、あるべき位置からのずれを、醒めて見つめるべきではないか。」

 辺見庸石川淳を引用したのは、昭和13年(1938)に発表した小説「マルスの歌」を思い出したからで、それは当時の人びとの平凡な日常の中に潜んでいる異常が、今の日本の状況に通うものがあると感じたからである。この小説は、すでに日中戦争が始まっており、反軍国主義の風刺が効いているとして掲載誌が発禁処分になっている。
 昭和15年(1940年)、日中戦争は泥沼化していく。衆議院本会議で立憲民政党斎藤隆夫の行なった演説は、政府・軍部の戦争処理を糾弾するものであった。
 「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際正義、いわく道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べたてて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない。」
 斎藤は、この日、草稿を持たずに演説をしたという。戦争の行方がどうなるか、国民の最大関心事だったにもかかわらず、政党は固く口をとざしたままだった。疲弊する国民の不満は高まっていた。反軍演説は約1時間半、終わると議場から万雷の拍手が起こった。だが、陸軍から「聖戦を冒涜するものだ」という批判が起こり、議長は演説の三分の二を議会速記録から削除した。親軍的党派は斎藤の除名を主張する。斎藤は懲罰委員会にかけられ、本会議で賛成296、反対7で除名が可決された。斎藤を擁護するものの多くは、欠席または棄権144の中に含まれていた。
 斎藤はそれまでたびたび「粛軍演説」を行なってきた。粛軍演説を支持してきた代議士たちは、戦争の進行とともに変質を遂げていった。
 その年、近衛内閣は一国一党の強力な指導体制の確立をもくろんで新体制運動を掲げると、各党はいっせいに解党し、大政翼賛会に組み込まれていった。
 「20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争」(読売新聞社)は、そのいきさつを記した後に伊香俊哉の指摘を書いている。
 「斎藤は反戦主義者ではなかったが、国民の軍部に対する批判や疑問を代弁し、政治家としての責任を見事に果たした。ところが議会は国民の声を封殺し、軍部と手を結ぶことによって戦争指導体制に食い込んでいった。その点で、政党の戦争責任も小さくない。」と。