授業・暮らしの歴史「床屋」

 「頭を刈るところ、何と言いますか」。
 床屋、散髪屋、理髪店、三つも名前がありますねえ。時代によって言い方も変わります。頭の髪の毛は伸びてくる、外国に長く滞在すると、かならず行くことになりますが、国によって、いろいろあるからびっくりすることもあります。道路に椅子を置いた床屋さんもある。言葉が分からないと、微妙なところが通じないので困りますよ。どんな髪の毛に刈ってほしいか、刈り方はどう、長さはどう、洗髪するのかどうか、刈った後何かつけるのか、こういうことを言葉なしに伝えられますか。どうやって伝えますか。日本で生活していたら、当たり前のことも、外国では当たり前ではない。
 ぼくの頭は、今は毛も薄く少なくなり、床屋へ行くことはなくなりました。電気バリカンをネット通販で格安で取り寄せ、ひとりでバリカンを持って、坊主頭にしています。庭に腰掛けて、充電したバリカンを手にもって、下から上へブーンと刈ります。上手ですよ。頭の後ろはねえ、バリカンをこう逆手にもって刈るんです。何度も何度も頭の上をなぞるようにバリカンを動かします。ほとんど虎刈りはありませんよ。
 さてそこで、今日は明治の初めに日本に来た、イギリス人の宣教師、ウォルター・ウェストンという人の床屋の話です。ウォルター・ウェストンは、日本の山に登り日本の自然を探検して、「日本アルプスの登山と探検」という記録を書きました。そのなかに、1892年(明治25年)8月、信州松本の床屋へ行った話が載っています。おもしろい話なので紹介しましょう。

 <ぼくは日本の床屋へはまだ行ったことがなかった。ヨーロッパ式の例の床屋の標識を入り口に立てた小さな店に入ると、横浜から取り寄せた大きな鏡の前に腰をかけさせられた。床屋は二週間伸び放題に伸ばしていたぼくのヒゲ(そのころは特に硬かった)に、何の予備工作もせずにいきなりかみそりを当てた。その小さなかみそりは柄がなかった。ぼくが石鹸と水をつけてくれというと、彼は驚いた様子だったが、それでも外国の流儀にあわせるつもりでか、要求を受け入れた。しかしその水が冷たかったので、お湯を使ってくれと要求すると、露骨に軽蔑の色を示した。日本にはひげの伸びない人が数百万人もいるが、伸びる人でも薄くてやわらかく、そのため、ぼくたち西洋人は石鹸や水をつけるのがあたりまえなのに、日本人には水が不必要だし、そんなことをする人はほとんどいなかった。
 床屋はぬるま湯と日本製のひどい石鹸を持ち出して仕事にとりかかった。十五分間、ぼくは無言の苦しみのうちに、文字通り椅子にしがみついていた。ほんとうはのたうちまわりたいくらい痛いのを我慢していたのだ。とうとう、床屋ができばえを見ようとして手を放したすきに、ぼくは椅子の上にお金を投げて逃げ出した。
 宿の縁側の片隅の暗がりで、残りのヒゲを剃り終わり、ようやく気を落ち着けて夕食の膳についた。>

 この文章から、どんなことを思いますか。どんなことが分かりましたか。
 ちなみに、その当時の鉄道はどんな状況だったか、みなさんで調べてみましょう。日本の鉄道の歴史です。
 生徒たちは図書館やネットを使って調べはじめた。
 調べてみると、1892年(明治25年)では、松本までの鉄道はまだ開通していなかった。彼はどうやって松本まで来たか、それを彼の記録から読み取る。
 こうして、松本まで鉄道が開通していなかった時代に、外国人が信州にやってきて、山に登り森を歩き、日本の人たちがどんな暮らしをしているかを知っていった。
 生徒たちが調べた結果は、
1903年明治36年)、東京新宿から甲府まで鉄道がつながる。
1909年(明治42年)、中央東線が開通した。
1911年(明治44年)、名古屋から中央西線が全通。中央東線中央西線編入して、中央本線に改称。
1915年(大正4年信濃鉄道(現在の大糸線)が開業。
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空想の授業です。