(3)<すぐれた実践に学ぶ>


         戦後の教育史と貴重な実践研究に学んでほしい

   
このごろNHKでは、「課外授業、ようこそ先輩」とか「わくわく授業」とか、
授業シリーズを報道している。
見ていて楽しい。
現役教師にとって、自分の限界を超えるために役立つ映像だと思う。
自分の経験だけでやっているとマンネリに陥り、自分では気づかないことがある。
映像がとらえた子どもの表情や大胆な発想、悩み苦しみながらも子どもに感動している先生の様子などは刺激になり、自分のなかからもアイデアが湧いてくる。


雑務に追われて、授業準備もろくにできず、同僚と研究もせず、
かぎられた準備であたふたと次の授業に行くようなことになると、
授業は底の浅いものになり、ひとりひとりに届く授業になるはずがない。
戦後60年にもなるというのに、教育は混沌とするばかり。
教育行政は、指導の停滞と固定化にますます拍車をかけているように思えてならない。
生き生きとした教育指導は、教師と子どもの意欲がつくる自由な空間から生まれてくる。
子どもたちが考えはじめ、互いに響きあい、より深い学びが生まれてきたとき、
教師は子どものすばらしさに感嘆し、子どもに教えられる。
それが教育の醍醐味なのだ。


新しく教師になる人は、戦後の教育史を学んでほしい。
当時、教師たちがどんな教育をしようとしてわが身を削り
子どもたちや仲間の教師たちと希望を語り合い、
教育を創造していたか、
その苦闘の現場と実践を知らなければならないと思う。


現場で奮闘してきたかつての教師たちが、このごろよく嘆くことがある。
それは、民間教育研究団体の衰退である。
戦後、理想の教育をめざして、たくさんの民間教育研究の団体が生まれてきた。
夏休みになると、全国津々浦々でそれらの教育研究会の合宿が開催され、教科指導や生活指導、学級作り、演劇、作文など様々のテーマによって、自分たちの実践を持ち寄り、発表しあい討議しあった。
そこには未知なるものを探究する喜びと希望、実践で連なる同志への友情、
そして命への畏敬の念があった。
しかし今、積み上げられてきた貴重な実践研究の場が、風前の灯にあるというのだ。
参加者は激減し、解散していく団体も多い。


ますます現場は困難になっているにもかかわらず、
教師になる前の教育実習はあまりに薄弱であり、
教師になってから受ける官制研修会も先生たちを力づけはしない。
生きた研究実践の場は、自発的につくっていくしかない。


昔、ある実践に惹かれて、ぼくはある中学校へひとりで参観に行ったことがある。
26歳の冬、雪が降っていた。
一日列車に揺られ、駅前旅館に泊まって、朝学校へ行った。
登校していく子どもたちに混じって学校を訪れ、どの教室に入ってもよいと職員に迎えられたぼくは、夕方子どもたちの下校まで自由に参観させてもらった。
翌日は養護学校を参観し、子どもたちと過ごした。
その体験は、ぼくに大きな影響を与えた。
学校に帰ったぼくは、若い仲間にその話を伝え、それから共に一つの授業方法を実践することになる。


実践する仲間を得ること。
自分ひとりだけで悩まないこと。
千里の道も遠しとせず、教育にかける教師たちの集まりに出かけて行ってほしい。
真摯に教育を実践している仲間はかならず見つかるから。