(4)<好きと嫌い>


       先生なんか嫌い
   

「先生なんか大嫌い」
感情をぶつけてくる子がいる。
ぶつけないで、そっぽをむいてしまうこともある。
新任の先生はたじろいでしまう。自信を失ってしまったりもする。
試練である。
これをどう受け止めたらいいだろう。
「私もあんたなんか嫌いです」と、先生の心の中でつぶやく声がある。
子どもと同じレベルで反応する感情がうごめいて、子どもを突き放してしまうのだ。
先生のその感情は言葉にしなくても、子どもに伝わる。
先生に嫌われた子は、ますます先生との距離をおいて、心も冷め、反発を強めていく。
何かきっかけをつくって、両者の感情がほどけていけばいいけれど、かたくなになった場合はやっかいだ。


この子が友だちへの影響力を持っている場合、仲間が同調しはじめることがある。
その子のグループは担任の先生を無視するようになり、そのグループに他の子も右へならえすると、クラスへの指導が入らなくなってしまう。
学級崩壊。


年齢が上がるにつれて自我の発達と共に感情も複雑になり、
何かが元で先生拒否の感情をつのらせてしまうのだが、たとえば、
先生はえこひいきをしている、先生は自分ばかりしかる、先生はあの子に甘い、先生は自分を理解してくれない、先生はごまかしている。
子どもはそうとらえてしまった、それがきっかけとなった。


「せんせい、せんせい」と寄ってくる子どもはかわいい。
明るく素直に言うことを聞く子はかわいい。
活発に活動し、まじめに勉強する子はかわいい。
「かわいい子」がいて「かわいくない子」がいる。
ひいきしているつもりはないけれど、先生のモノサシがあって、そのモノサシで子どもを観ている。
成績、行動・態度、性格、容貌など、いろんな観点から子どもを観て、子どもを評価している。
このモノサシは、なかなか変えられない。頑固に頭にこびりついている。


そこで考える。
あの子は問題児だ、あの子はいい子だ、としている自分の観方と、
他の先生の観方は同じかと。
観方は他の先生とでは異なることがある。
モノサシは絶対的ではない。
モノサシはあくまでも自分だけのモノサシである。


子どもと遊ぶのが大好きな先生は、いたずらっ子が好きです。
チャレンジ精神の旺盛な先生は、子どもの失敗に寛容です。
モノサシにとらわれない、
子どもはひとりひとり異なる、
子どもの多様性、多面性を受け入れる。


「先生なんか大嫌い」
そういう子どもを、まずはまるごと受け止めることです。
「まるごと」です。
うろたえない。
無視しない。
腹を立てない。
感情の表出に対して理屈で反論したり、しかっても効果がない。
「大嫌い」の裏にある子どもの心は、「好きになりたい」かもしれない。
子どもは心を開きたい。
ピンチはチャンス、チャンスだからチャレンジ。
かわいくない子も、かわいくなります。
教師に必要な資質は『ユーモア』と『寛容』です。