ヒーロー


         ヒーロー


 1951年、戦争が終わって6年がたっていました。
中学二年生に一人の男の子が転校してきました。少し背の高い、静かな子でした。名前は千宗と言って、彼のお父さん、お母さんは、戦争中に朝鮮から日本に渡ってきたのです。
 千宗君が来てから、ひとつの遊びが爆発的にはやりました。それまでだれも知らなかった遊びです。千宗君は、その遊びを「地獄と天国」と言いました。はやり始めてからは、みんなはその遊びを略して、「ジー」と呼んでいました。
 千宗君はクラスの男子とすぐに仲良くなり、翌日、休憩時間に、運動場へみんなをさそいました。校舎の廊下の外はもうグランドです。
 千宗君は土の上に、一辺が1メートルほどの四角を描き、それぞれの角に深さ一センチほどのさかづきのような穴をあけました。四つの穴をあけると、次に真ん中にもう一つ穴をあけました。
 それは小さな野球場のようで、マウンド、本塁、一塁、二塁、三塁の位置が小穴になっていました。
 千宗君は立ち上がると、ポケットから何かをつまみだしました。見るとそれは青いビー玉でした。つづいて赤い玉、白い玉、黄色い玉を出しました。
 それから千宗君は遊び方を説明し、玉のうち方の見本を見せてくれました。彼は、一個の赤い玉を一塁の横にころがし、自分は青い玉を右手の親指と人差し指の間にはさんで、本塁のところにその手を着くと、ねらいさだめて親指をはじいたのです。ビー玉は一直線に飛んでいき、パチーンと音を立てて赤い玉をはじきとばしました。
 わあ、すごい。
 みんなはその名人芸に息を飲みました。
 男の子たちの眼の色が変わりました。
 次に千宗君は、中指と親指の間に玉をはさんで、てのひらを上に向けると、中指をはじいて玉を二塁の小穴にすぽっと入れたのです。
 ウァー。
 子どもたちは、かん声をあげました。
 遊び方は、それぞれ一個のビー玉を持ち、交互に玉を指ではじいて小穴に入れたり、他の子の玉に当てたりしながら、マウンドから本塁、一塁、二塁、三塁と回って先にホームを踏んだものが勝ちになります。
 ビー玉の打ち方は何種類かあり、遠くの穴に入れる飛ばし方、近くに入れる打ち方、他の玉を一撃する打ち方など、そのときどきで指の使い方を変えます。
 千宗君は技を使いわけ、その名人芸は仲間の尊敬を集めました。
 男子は、ほとんど全員がこの遊びに熱狂しました。授業が終わると休憩時間はグランドに飛び出し、三、四人のグループをつくって、「ジー」をやる楽しさ。次の授業が始まるまで、グランドのあっちにもこっちにも球を打ち続ける姿があり、先生たちはあきれはてて見ていました。けれどそくざに禁止をしませんでした。
 千宗君は、勉強はできませんでした。けれどもこの名人芸によって、彼はヒーローになりました。
 「ジー」への熱狂はそれからどのくらいつづいたのか、記憶が定かではありません。けれども、ヒーローへの尊敬の念は、記憶にしっかりと残っています。
 子どもの世界には、いろんなヒーローがいました。草笛の名人もヒーローでした。校内弁論大会でジェスチャーを交えて演説した一級上の先輩もヒーローでした。小学校の学芸会で「野口英世」の主役を演じた在日韓国人の徐くんは、演じながら涙を流す熱演を見せ、彼もヒーローでした。日本全国の鉄道を覚えている森君もそうでした。
 ヒーロー千宗君、中学校を卒業してから一度もあっていない。大人になってからどんな人生を歩んでいるかなあ。