子どもの遊び研究⑤

        五、遊びから生まれるもの



遊びと人間についての研究では、有名なのがフランスの思想家、ロジェ・カイヨワ
カイヨワの定義では、「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」という分類をしている。
「真似」は、このうちの「模擬」に入るが、子どもの真似は、それを信じ込み、そのものになりきるから単なる模擬ではない。
「競争」は誰が勝つか、その勝負がもつおもしろさ。
「偶然」は、何が起こるか分からない、偶然性のおもしろさ。
「眩暈」は、熱中する冒険性から生まれるおもしろさ。
ぼくは遊びの中に、「冒険性」「探検性」「挑戦」が含まれてくると考えている。


子どもの遊びには、物質的な見返りを求めたり、学習の効果を求めたりとかいう、
打算は何も無い。
先に何か目的があって、それをするものではない。
けれども、無心に遊ぶ子どもの行為が、名人のような結果を生み出すことがある。


冬の田んぼには、刈り取られた後放置されている稲株が、枯れ色の列を作って並んでいる。
天神さんからの帰り道、電車の二駅分を歩いて帰っていた。
田んぼを横切っていけば、近道になる。
柳一は、勢いよく走り出し、田んぼの稲株の上を小刻みに踏んで、しかし足を踏み外すこともなく、
数枚の田んぼを渡りきってしまった。
稲株から足を外すと、汁田の泥にはまり込んでしまうが、稲株のうえを踏んでいけば、靴が泥に潜ることもなく、きれいなままに田んぼを渡りきることができるのだ。
思いがけない柳一の技だった。


小学6年の修学旅行は京都だった。
旅館の一夜、教師たちは、ことりとも姿をあらわさず、
大広間は子どもの天下になった。
敷き詰められた布団のなかにごろごろ寝転んでいる子どもらの大騒動がしばらく続いて、
とつぜんチビの進が、大声で落語を始めた。
電気の消えた大部屋は、しーんとなった。
魚屋の息子、わんぱくで知られている進、
勉強はからきしできず、
国語の教科書もろくに読めない進が、落語をはなすとは、
部屋中がげらげら笑い声でいっぱいになった。
これは予想を覆す椿事であった。
ワルガキの進はそれ以後人気者になった。


独楽回しがはやると、その名人がいた。
名人芸に独楽の肩かけや耳かけというのがあった。
極限の技だった。
独楽に紐を結んで、地面に向かって投げて引き上げる、
独楽は空中に飛び上がって落ちてくるが、そのときに肩や耳と手の間にぶら下げた紐に受け止め、
回しつづけるという技だった。


ぼくは竹馬の名人でもあった。
エンドウの支柱に使う「だての脚」というのを使って自分の馬をつくる。
50センチ以上の高い位置に足場をつくり、これに乗って坂道を駆け上ったり下りたりしていた。
障害物は大きくまたいで自由自在に歩いた。
止まっているハエを、後ろから指を近づけて、その後ろ足を押さえてつかまえるという名人もいた。
石屋の勝美君は、裸馬に乗って闊歩していた。



転校生、大川君が、中学校に、「天国と地獄」という遊びをもたらし、
爆発的に流行させたのは、
彼の名人芸だった。
一メートル四方ほどの土の上に、野球のダイヤモンドのように、五つのさかづきほどの小穴を開け、
自分のビー玉を小穴の中に放り込んだり、敵のビー玉に打ち当てたりしながら、
ホームベースの位置まで早く一周してきたら勝ちという遊びだった。
大川君は、まさに名人芸で、ビー玉を穴に入れるときは中指を使い、
他の玉に当てるときは親指をばねのように使う。
パチーン、大川君の当てる音は、見事に気持ちよかった。
休み時間になると、脱兎のごとく運動場に飛び出し、数人ずつのグループを組んで、ビー玉で遊ぶ。
運動場は、熱中するグループで埋め尽くされていた。
教師は、あきれて見ているだけで、禁止をすることもなく、
のどかな時代だった。


ぼくが教師になって出会った名人にも、将棋名人がいたり、
昆虫採集の名人がいたりした。
登山部の田島君は、甲虫が詳しく、ぼくが引率して山に入ると、彼の興味は甲虫にあり、
薮をよく探していた。


遊びは、子ども達を近づけ、
互いの性格や癖を知り、
自然と人間を観察し、その本質を知り、
感性や運動能力を鍛錬し、
社会性をみがき、
大人として必要な資質を養う、
重要な基本体験なのだ。


民俗学者宮田登は、「宮田登 日本を語る」(吉川弘文館)において、こう書いている。
「非常にあざやかに、おはじきに勝つ者のなかから、
人望のあるおとなに育つ子どもがいる。
おはじきで、手近に取れる玉をさしおいて、
はるかに離れたものを巧みにねらって取る度胸などは、
おとなになっても発揮されるという。」と述べ、
柳田國男の言を紹介する。
「全面の計画、どれからどれへ行くのがよいかの判断、殊にこういう事は、自分に出来るか否かの
前途の見切り等、大よそ人間が大きくなってから入用な能力は、小規模ながら、
すべてこの毎日の遊びに熱中することによって養われていたのである。」